孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「何故俺は勝てないんだ」と「勝負」に異常までこだわる私 本当の「勝負師」は「勝ち負け」を超えた次元にいる 私もそのようになれば「勝てる」だろう

私は、「勝負」に異常なまでに固執する。その「習性」は、幼児期からすでに始まっていた。私が保育所の時に、「運動会」の「徒競走」では絶対に「一番」になりたくて、「フライング」をしてしまうほどだった。実際に私は、走るのが早かった。「障害物競走」という「競技」があった。これが私の一番得意なものであった。「様々な障害物」を避けたりしながら、「ゴール」にたどり着くものである。どうも、幼児期から、私は、「ギリギリの綱渡り」のようなことが得意のようだ。「人生において」も、同じような気がする。「危険な目」に遭って、「ヤバい状態」に追い込まれるものであるが、何とか「生き残ってきた」。「悪運が強い」のだろう。そんな私であるが、どうも「自分の実力」を発揮できずに、「不本意な人生」を歩んできた、いや「歩まざるを得なかった」と言っても良いだろう。一言で言えば、「人との出会い」が良くなかったことだ。「成功している人」は、「才能」はもちろん持っているが、やはり最終的には「人との出会い」だ。「人事」においても、必ず「人徳のある人」が引き立てられる訳ではない。私の弟を見ていると一層そうしたことを感じるのだ。私が弟を批判するのは、「嫉妬」でも「やっかみ」でもない。やはり弟は、「世渡り上手」で「ずるがしこい」のだ。ちなみに、弟は、「運動神経」が悪く、「走るのも遅い」そして「プール」も5mしか泳がない。私たちの時代は、「運動神経」の悪い子供は、「いじめ」のターゲットになった。弟が通っていた「中学校」は、「やんちゃな生徒」が多く。直ぐにそういう子は目を付けられたはずだ。しかし弟はいじめられることもなかった。「運が良い」うえに「周囲の人間」に迎合するのが上手いのだろう。私は、「勝負」が好きで「他者と争う」ことを好む。ちょっとしたことで、「なめられたと思う」と激昂して、収拾がつかなくなる。「異常なまでに闘争心」があり、私自身「感情の激しさ」を持て余している。最近思うようになったのは、「勝負」に固執している間は、「勝負」に勝てない。「本当の勝負師」は、「勝負」を超えた違う次元にいる。私もそのようになれば、勝てるだろう。