孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

子供の頃から「戦隊モノ」のヒーローに憧れていた私 おそらくその気質が今も残っていて、実現し得ない「理想論」を追い求めているのだと思う

私は、まだ言葉を話せない幼児の頃から、「東映の戦隊モノ」が好きであった。私は、1981年生まれであるから、「チェンジマン」「ダイナマン」という戦隊モノが当時放送されていた。言葉にならないのに、「チェンジマンチェンジマン」と繰り返していたと親は言う。私には記憶がない。しかし、その当時の写真を見ると、「戦隊モノ」の帽子や靴を身に付けている。大半の男の子は、「戦隊モノ」が大好きである。しかし、私の「戦隊モノ」へののめり込みは、常軌を逸していたのではないだろうか。「戦隊モノ」は、東映映画株式会社が製作してだけあって、「勧善懲悪」がはっきりとしている。つまり、善と悪が描かれていて、必ず「善」が「悪」に勝つ。この「ストーリー」は、「東映映画」の常道である。「水戸黄門」、「遠山の金さん」と言った時代劇でも同じようなストーリー展開がなされる。視聴者は、そうした分かりやすい筋書きを好む。若い人は、「水戸黄門」や「遠山の金さん」を小馬鹿にする。しかし、歳を取って、老人になれば、自然とそうした時代劇を好むようになるのではないだろうか。私の両親が、毎日のように「時代劇の再放送」を一緒に楽しんで見ている。「鬼平犯科帳」「剣客商売」などの池波正太郎作品は特に好きなようだ。私からすれば、何であんなものが面白いのかと思う。私の両親は、団塊の世代であり、「時代劇」などを好む世代ではない。やはり、歳を取ると、「分かりやすドラマ」の方が「高尚な映画」よりも楽なのだろう。私は、「理想主義者」で「完璧主義者」である。そのためか、「嘘くさいもの」「似非正義」に対しては、異常な嫌悪感を示してしまう。そうした性格が、私を生きづらくしているのだろう。社会の中で「適応」して生きていくことは、自分の「理想」と「現実」との折り合いをつけることである。「適応」できる人間は、自分の「理想」など捨てることが出来る。しかし、私にはそうしたことが出来ない。「青臭い理想論」に固執して、自縄自縛になってしまう。おそらく、幼児期の頃に異常なまでに「戦隊モノ」に憧れた名残がいまだに残っているのだろう。ただ、私は、人から嘲笑されても「理想論」に固執して生きていこうと思う。