孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

曽野綾子 「働くもの食うべからず」的な価値観で 無職の人間を断罪する 笹川良一が設立した「日本財団」の会長を歴任したり 自分の子供だけは「溺愛」する こういう人間に「働いていない人間」を責める資格はない

私は、曽野綾子が大嫌いだ。彼女の作品を読んだこともないし、これからも読む気がしない。曽野綾子は、「働くもの食うべからず」という価値観を持っていて、「働かない者」を断罪する。曽野綾子がそのように主張するのは、「海外の貧しい人々」を引き合いにして、「日本は裕福な国なのに、若い元気な者が働かないというのは、けしからん」というものだ。こうした「論法」は、世間受けする。世間の人の大半もやはり「働く者食うべからず」という価値観を持っていて、「働いていない人間」をまるで「不逞の輩」のごとく扱う。私は、どうもそうした「価値観」に対して懐疑的である。確かに、日本は、貧しい国と比較して裕福であり、「職を選べなければ、どんな職を得られるようになっている」。しかし、「働くこと」に真摯に向き合っている人間が、「自分に不本意な仕事」はしたくないと考えて、「無職」の状態にいるケースも多いのではないだろうか。「職安」などという所は、親身になって、その人の「適職」を探す手助けなどしてくれない。「親方日の丸」の頭の固い「公務員」ばかりで、ほとんどやる気がない人間ばかりだ。高学歴で、人格も高潔な人間であるが、一生涯を「無職」で終えてしまった人は昔から存在した。あるいは、「仕事」を転々として、結局は、「無職」という「社会生活不適応者」の存在は、今に始まったものではないということだ。「効率優先」の現代のような「社会構造」では、ますますそういう人間が増加するのはある意味必然である。曽野綾子が、「貧しい国の人たちが懸命に生きている」のに「働かない人間は、生きている意味がない」と主張するのは、「論理のすり替え」でしかない。曽野綾子は、「裕福な家庭」に生まれて、何一つ苦労などしていない。夫は、作家の三浦朱門であるが。この三浦朱門は、「勉強の出来ない人間は、出来ないままで結構。100人のうち2、3人のエリートを伸ばせば良い」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば、本人にも国民にとっても不幸になる」という趣旨の発言をしている。「トンデモナイ差別主義者」だ。曽野綾子は、自分の息子を溺愛して育てた。また、笹川良一が設立した「日本財団」の2第目の会長を歴任している。曽野綾子は、笹川良一という「極めてダーティな人物」と蜜月であった。曽野綾子というインチキ臭い人間に「働く者食うべからず」なる「最もらしい説教」を垂れる資格はないと私は思う。