かつて、「懲役15日に処する、未決拘留日数15日をその刑に算入する」という判決を下した裁判官がいた。中日新聞社の記者であった飯室勝彦氏がこの判決を下した裁判官を大絶賛していた。この裁判の背景は暴力団員が警察官に公務執行妨害で逮捕された。そして取調べにおいて暴力団員が警察官たちから暴行を受けていた。それにも関わらず、警察官たちは処分されていなかったのである。飯室勝彦氏と同様に私もこの判決は素晴らしいものだと感動してしまった。おそらく最近の裁判官でこのような判決を下す人間は皆無ではないだろうか。裁判官は絶えず最高裁裁判所の顔色を窺っている。「有罪判決」を書くことが当たり前になっているのは、検察の控訴を恐れてのことである。裁判官にとって、「無罪判決」を書くことは出世にも影響してくる。法の安定が司法にとって何よりも大事であり、そうした慣習を破る者は最高裁判所から目を付けられて、出世コースから外されるからだ。伝説の裁判官と言われカリスマ的な存在である木谷明さん。木谷明さんは飄々と「無罪判決」を書くことに抵抗を感じなかったとおっしられている。それは本音ではないだろうと私は思う。木谷明氏の父親は囲碁の天才であった。御本人は、自らの才能の限界を感じ、囲碁の道を断念して、司法の世界に入った。そのため、判決文を書く際に非常に「理詰め」で書いていった。そのため、検察は控訴を断念せざるを得なかった。木谷明氏の本は司法修習生の間で人気があったというが、その教えを実践している裁判官は非常に少ない。つまり組織のなかで、他者と違うことをできないのである。「正義感」があっても我が身かわいいのが人間である。裁判官のみならず、弁護士もくだらない人間ばかりになった。ただ司法試験を受験して、民事で大企業の顧問弁護士になってお金儲けしか考えてない。「刑事裁判」のような割の合わないことはしない。社会的弱者である被告人の立場など司法試験を受験する人間には到底理解できないのだろう。