孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

報道特集 118円のカップラーメンを10円足りなく買えない 路上で雑誌を売る50歳男性 円安、物価高だけではないもっと別の問題を孕んでいると思う

昨日のTBSの「報道特集」は、「円安、物価高に加え住む場所まで、生活困窮者たちの現実」というテーマだった。その中で最も印象に残ったのは、20歳代から路上生活を続けて、現在は、生活困窮者を支援する雑誌「ビックイッシュー」を路上で販売して生計を立てている50歳の男性だ。この男性は、番組の取材に次のように答えている、「20円売れれば、4600円になるから、それで、飲代と交通費と全部出して、もう残んないよ。物価もだんだん高くなっていくしねえ。本当にもう。ローソンで、100円で、カップラーメンが買えていたのが、10円上がって買えなくなった時もある。108円だけ握りしめて、118円ですと言われて、10円足らないじゃんと諦めたこともあったし」と。この男性は、顔に「モザイク」がかかっていた、話し方や歩き方、そして全体の雰囲気から「知的障害」あるいは、「発達障害」があるように感じられた。番組は、そのことに触れていなかったが、もし男性に何らかのハンディキャップがあれば、予め伝えておくべきではないだろうか。思うに、20歳代から、路上生活、所謂「ホームレス」状態にあったにも関わらず、支援されずに50歳まで放置されてきたことに、この国の福祉の遅れを感じざるを得ない。特に、「ホームレス」の方々には、何らかの障害があり、自身の思いを他者に主張できないことが多い。メデイアに取り上げられる生活困窮者を支援する団体が、あたかも正義の権化のように思われていることに対して、偽善的なものを感じてならない。社会的弱者の味方のふりをしながら、実際は「貧困ビジネス」に手を染めているといった組織も多いのではないだろうか。しかし、メディアは、一切そうした事に言及しない。特に、西成で矢嶋祥子医師が不審死を遂げた事件。この事件は、大阪府警は、捜査しようとしない。何故ならば、「貧困ビジネス」が絡んだ闇の深い事件であるからだ。円安、物価高で生活に困窮する人が増加しているが、この50歳の男性が抱えている問題はもっと別の所にある。不寛容な社会で、孤独の淵に追いやられた男の孤独にもっと焦点を当てるべきなのではないだろうか。

 

 

 

敗北だけの人生であっても 輩やゴロツキに負けないという矜持と闘争心を持ち続けられることが出来れば 何時かは勝てる時が来ると思う

私の人生は、何をやってもうまくいかない。その原因は、自分にもあるだろうが、やはり度重なる不運によって押しつぶされてきた気がしてならない。過去を振り返っても、「本当についていないなあ」と感じさせることが、あまりにも多いからだ。うまくいきかけて、予期せぬ「アクシデント」に見舞われて、潰されてしまう。こういう書き方をすれば、統合失調症の被害妄想に過ぎないと言う反論があるかもしれないが、それは全く違う。世の中は、大まかに運の強い人間と弱い人間に区別されると思う。運の強い人間は、さほど努力をしなくても、向こうから幸運がやって来る。それに引き換え、運の悪い人間は、何をやってもうまくいかない。世の中とは、不条理で残酷なもので、薄汚い「輩」や「ゴロツキ」が何の罪咎を受ける事無く、のうのうと生きていける仕組みになっている。「天網恢恢疎にして漏らさず」という格言は、全くの嘘である。最近の社会では、「輩」や「ゴロツキ」があまりにも増加した。昔もそうした手合いが存在したが、あまり目立つことはなかった。原因として考えられるのは、日本人の「モラル」「道徳的意識」の低下である。私は、「道徳」を学校教育の現場で教えさせようとする、「保守派」は大嫌いだ。「保守派」が掲げる「道徳教育」なるものは、天皇イデオロギーが根底にあり、政治利用しようとする魂胆が丸見えだからだ。それよりも、直ぐに実践できる「他者へのさりげない心くばり」のようなものが必要に思えてならない。話が横道に逸れたが、「輩」や「ゴロツキ」が得をして、大きな顔をしているのであれば、不遇をかこち、敗北してしまった人間はどうすれば良いのだろうか。私見として、「輩」や「ゴロツキ」にいつかは、勝ってやるという闘争心を燃やし続けることだと思う。大袈裟な言い方をすれば、「輩」や「ゴロツキ」にどれだけ、殴られ、蹴られても、立ち上がっていく、「狂気」ともいえる度胸があれば、相手は、たじろいでしまうのではないだろうか。私自身に必要なのは、その度胸なのだと確信しているが、一朝一夕に身に着かないものでありであり、暗中模索している限りだ。

 

 

「結婚相手に男性の容姿」を求める女が過去最高に ブスのくせに男の顔を品定めする いったい何様のつもりなのかと言いたい

2021年の最新の出生動向基本調査によれば、結婚相手に求める条件として、「相手の容姿」が、1992年以降過去最高の記録の81,3%となった。この調査で、分かったことは、女性が男性に求める条件として、「相手の容姿」が全項目の中で、最も増加した。統計を見なくても、案の定こういう結果になることはある程度推測できた。このことについて、独身評論家の荒川和久さんは、鋭い考察をしている。荒川和久さんの文章はいつもチェックしているが、非常に参考になる。しかし、今回の荒川和久さんの考察について言えば、私とは少し見解を異にする。生涯未婚率が異常なほど増加して、結婚どころか、恋愛すらできない所謂「恋愛弱者男性」を生み出したのは、「男の顔の商品化」が全ての原因であると言っても過言ではないだろう。かつては、誰もが結婚できた。それは、女が「男の顔」についてとやかく条件を求めなかったからである。見合い結婚が主であった時代に、見合いの席で初めて「男の顔」を見て、自分の好みの顔でなかったけでども、「誠実そうでこの人とならば、一生添い遂げることができる」と確信して、結婚したというエピソードを耳にすることが多い。見合い結婚が廃れ、「自由恋愛」の時代に突入しても、女の方は、相手の性格を、恋愛や結婚の第一条件とした。おそらく、こうした傾向は、団塊の世代まで続いただろう。しかし、バブルの頃から、若者たちの恋愛事情が激変していく。街を一緒に歩く際に、「恥ずかしくない男」を選ぶようになった。以後、エスカレートしていく。近年の行き過ぎた「ルッキズム」と「フェミニズム」が、ますます勘違いした女をのさばらせている気がしてならない。私が、「フェミニズム」が嫌いなのは、「女の自立」「女の主体性」を「ただの女のわがまま」とはき違えているからだ。「選択的夫婦別姓」「ジェンダー平等」を提唱する女に限って、私生活では、「イケメン」をちゃっかりと摑まえていることが極めて多い。また、「フェミニスト」に「恋愛弱者男性」を侮蔑し、汚物を見るようなまなざしを送る手合いがいる。芸能界を見渡しても、団塊の世代までは、大女優の大半が、業界関係者と結婚した。調べて見ると、何故、こんな美人が、「不細工な男」を選んだのかと驚嘆してしまう「カップル」がある。周囲には、男前の俳優がいるのに。何をかいわんや、彼女たちは、「男の顔」などは二の次で、その性格に惚れたのである。街を歩いている庶民のカップルを観察しても、「ブス」と「イケメン」のカップルは成立する。しかし、「不細工」と「美人」のカップルは存在しない。その前に、美人というのを街で見たことがない。「イケメン」もどきは吐いて捨てる程いるが。男は、「女の顔」に対して寛容になったのだろう。その反面、女は、「男の顔を商品化」させた。この男女の非対称性こそが、結婚や恋愛において最も深刻な問題だと、私は思う。

「昔エリート候補だった人間」が 病気や社会不適応で 「障害者作業所」に通所する それはあまりにむごたらしく 悲しい事ではないだろうか?

ひきこもり支援のみならず、最近は、職場で不適応を起こして、重度の「うつ病」になった人間に、障害者手帳を申請させて、障害者の方々が働く「作業所」で働くことが珍しくなくなってきた。どうも、私は、この風潮に違和感を感じてならないのだ。「作業所」にもА型、B型など様々なものがある。しかし、共通しているのは、「普通に働くことができないから」取り敢えず、段階を踏んで、ステップアップさせていくという考え方が根底にある。また、「障害者作業所」と名前を付していなくても、「社会復帰へのプログラム」を実践する「復職支援オフィス」と称している会社がある。「障害者作業所」にしり「復職支援オフィス」の中には、非常に質が悪い所があり、国から支援金を不正に詐取して、事業所の取り消し処分になるといったニュースを頻繁に耳にする。結局は、甘言を弄して、ひきこもりやうつ病に罹患して、働けなくなった人間を騙している以外の何物でもない。もちろん、当時者に寄り添って、社会復帰を見守ってくれる所もあるだろう。私が、一番許せないのは、成績優秀で、一流大学を卒業したが、長期にわたって、ひきこもった人間に対する行政の支援だ。近年、ひきこもり当事者の高齢化が著しい。一度も社会に出ることなく、家でひきこもっているのだから、精神障害者とさして変わらないという考え方が、ひきこもり支援のスタンダードになってきた。20年前に「ひきこもり問題」を社会に流布させた斎藤環でさえ、そのような主張をしているのだから救いようがない。行政の「ひきこもり支援」は、精神科で発達障害うつ病などの適当な診断名を付けさせて、障害者手帳を申請させる。そして、知的・精神障害者の「作業所」で働くことに慣れさせる。あるいは、企業の「障害者枠」で雇用させる。こういった紋切型の「ひきこもり支援」しかなされていない。仮りに、高齢のひきこもり当事者が、かつて「エリート候補」であった場合に、自分の知的能力を発揮できずに、不本意な単純作業をさせられる。これほど、人間の尊厳を冒瀆するものはないと思う。例えば、企業の「障害者枠」で働くとする。最近は、新聞などで、首都圏の「コンビ二」が、「障害者雇用」に力を入れている記事を頻繁に見る。「障害者枠」で、「コンビニ」で働いていて、かつての同級生が、超一流企業で働いていて、再会するという場面を想定した時。この高齢のひきこもり当事者は、どのような無念な感情に苛まれることだろうか。企業が、障害者を雇用する「法定雇用率」にも悪しき点が多い。長年ひきこもっていて、働けない、働きたくないのであれば、無理をして働く必要はないのではないだろうか。理想論であるが、行政は、高齢のひきこもり当事者の能力に応じて、新しい「雇用形態」を創出するべきではないのかと、私は思う。

沖縄県警 少年の右目を失明させた事件 やっと30歳の警察官が「故意」に警棒を振るったことを認める まさに「嘘つきは警察官の始まり」である

今年1月バイクで走行中の男子高校生に右眼眼球破裂などの重傷を負わせて、失明させたとして、30歳の沖縄署の男性警察官30歳が、特別公務員陵虐致傷罪容疑で那覇地検書類送検された。この事件に関しては、1月27日の夜から28日の早朝にかけて、300人に及ぶ若者たちが、沖縄署に集まり、投石をするなどの騒動が発生した。その原因は、SNSで、「高校生が、警察官に警棒で殴られた」という情報が拡散されたからだ。沖縄署は、当初「路上で、暴走行為を取り締まっていた警察官が、バイクを運転中の少年に職務質問をしようと制止を呼びかけた際に、少年と接触して、ケガをした」と発表した。しかし、少年は、「警察官から、いきなり棒のようなもので殴られた」と主張した。両者の主張は、今回警察官が書類送検されるまで食い違った。3か月後に、沖縄県警捜査1課は、警察官が使用した「警棒」から少年の「DNA」が検出されたと発表した。しかし、この時点でも、まだ、警察官が、故意に警棒で少年を殴った事実を認めていない。私は、この事件が起きた時に許せなかったのは、Twitter上で、沖縄署に集まり、石を投げた少年たちを不逞の輩のように書き込む馬鹿があまりにも多かったことだ。また、「高校生が、警棒で殴られた」という情報が、「デマ」であるかのような書き込みも散見された。この情報は、「デマ」ではないことががすぐに判明する。少年たちは、「やんちゃ」な所もあるが、仲間が「警察官」から酷い仕打ちを受けたことに義憤を感じ、沖縄署に集まり、石を投げたのであろう。他人の事など無関心なイマドキの若者とは違い、この少年たちの「正義感」に私は、感動した。この事件について、メディアは、全く報道しなかった。少年側の主張と、警察側の主張が、食い違っていたが、常識的に考えれば、警察側の主張の不自然さは明白であった。それにも関わらず、警察の正式な発表がない限り、「真実」を調べようとしない。警察の犬に成り下がった、メディアの醜悪な姿以外の何物でもないだろう。Twitterで、「警察組織」を擁護する馬鹿にはあきれ果てて物も言えない。警棒で殴られた少年は、失明までして、その苦しみは測り知れない。どこまでも「真実」を隠蔽し続けた今回の事件は、「嘘つきは警察官の始まり」という言葉を象徴するものだ。

 

田崎史郎 岩田明子だけではない 政権と蜜月になってしまう 取材記者が「権力」の下僕になってしまうケースがあまりにも多い

田崎史郎、岩田明子と言えば、「政権」に食い込んだ記者として有名である。田崎史郎の場合は、最初からそういう意図があった訳ではないだろうが、長年の新聞記者生活を送るうちに、政府首脳陣と親密になったのだと思う。とりわけ、酷いのは岩田明子だ。岩田明子は、東京大学法学部を卒業後、NHKに入局した。一貫して、政治部担当記者として取材を続けてきた。特に、安倍晋三元首相が、官房副長官時代から気に入られ、安倍晋三元首相の自宅にもあがることを許され、ゴットマザーである安倍洋子からも全面的に信頼された。安倍晋三元首相が殺害されてからは、NHKでは冷遇されているようである。私が思うに、田崎史郎、岩田明子だけではなく、そうした「永田町」の番犬である新聞記者が数多く存在するだろう。時々、テレビやラジオで、新聞記者が、首相の記者会見で質問しているのを聞くと、その内容のレベルの低さには驚きを禁じえない。大手メディアの記者が、挙手をして、順番に首相に質問するのであるが、およそ中身の伴わないくだらない事ばかり質問をする。これは、「記者クラブ制度」に庇護されて、勉強不足の「サラリーマン記者」が著しく増加したことを証明している。私が最も許せないのは、大手新聞社の地方支局では、地元の「有力企業」「名士」におもねることが慣習となっていることだ。「朝日新聞」「毎日新聞」といったリベラルな新聞社が、戦争や平和といった大文字の正義を主張していながら、やっていることは言動不一致の矛盾だらけ。最悪のケースでは、地方支局を離れた後に、また戻ってくることがある。こうしたことをしていると、必然的に「地方の権力者」と親密になってしまう。地元の警察官とは顔見知りになり、「警察組織」の不正は絶対追及しない。それどころか、「警察組織」の提灯記事ばかりを書く。こうした新聞記者は、他府県出身でありながら、「地元愛」を感じると言いながら、やっていることは、「権力」の太鼓持ちでしかない。「権力」と対峙するよりも、「権力」に取り入ることに腐心するあまり、新聞記者の質が低下してきたのだと思う。