孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

余貴美子 「売れていない時代」でも「私は女優よ」と言い通した凄さ 私も「無名」で「石ころ」のような存在であっても「俺を誰だと思う」という意識で生きたい

余貴美子さんは、今では「日本映画界」を代表する女優である。しかし、若い頃は、今ほどあまり世間に認知されていなかった。「劇団」に所属して、様々な「映画やドラマ」に出演していたが、やはり「脇役」の域を超えるものではなかった。「芸能界」で売れるということは、「ある種の賭け」である。たとえ、「ルックス」「演技力」があっても、売れるとは限らない。また、逆もしかりで、「演技力」が全くないにもかかわらず、売れる場合もある。最近の芸能界は、完全に後者の方である。つまり「所属する芸能事務所」の大きさによって左右される。だから、素人に毛が生えたような人間が偉そうにテレビに出て、思い上がっているのが現状だ。テレビ局も、「視聴率」と言う数字を過剰に気にして、くだらない芸能人を起用し続ける。余貴美子さんは、売れていない時代であっても「私は女優」と言い通したと何かの番組で語っていた。こうしたことは、よほどの自信がないと出来ないことである。多くの「無名の役者」たちは、こころの中でそのように思っていても、直接口に出して言えるものではない。やはり、そうした「強気」が、余貴美子さんの成功の秘訣であったと私は考えている。「おくりびと」と言う映画では、余貴美子さんは、圧倒的な存在感を示している。主役は、本木雅弘なのに、完全に主役を食う「存在感」を見せつけた。訳ありで、人生の「酸いも甘い」も噛み分けた雰囲気は、今の「若手女優」には到底出せない。余貴美子さんは、それほどの美人ではない。だから、「主役」になれなかったと言っても過言ではない。しかし、「舞台」で鍛えた「演技力」と「役者としての素質」が熟成して、一流の役者になった。「主役」以外は、「人間扱いされない」厳しい芸能界では、余貴美子さんのように「売れていない状態」に耐えることができずに脱落していく人間も多い。やはり「我慢」が成功の秘訣である。私も「無名」で「石ころ」のような存在であるが、「俺を誰だと思っている」のだという意識で生きていきたいものだ。