孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「おちょくる」 関西弁であるが 「おちょくってんのか お前は あいつは」と言われたり 酷い目にあってきた しかし 私は今後もその生き方を変えない 「おちょくる」ことこそ「アナーキー」かつ「反社会的」である!

「おちょくる」と言う言葉がある。これは、大阪だろう。「世の中をなめてかかる」というふうに悪い意味合いで使用されている。しかし、本当の「おちょくる」は、もっと深みのあるものだと私は思う。「既成の社会通念」を「大阪ふうに批判する」ことを「おちょくる」と言うのではないだろうか。「大阪の文化」は「東京」に対して反抗意識ならびに対立意識が昔からあった。江戸と上方と「二極化」されているように。中間が、尾張、今の名古屋であるが。「名古屋」の文化は、上方のように「激しさ」がない。個々人が「ぜいたく」を楽しむような風潮がある。また、「体制に反逆する」というような争いごとを「野暮」な事と見做し、「斜に構えている」ようなところがある。どうも、私自身「愛知県」「名古屋」や「中京圏」が好きになれないのだ。県民性も「閉鎖的」で、「よそ者」を受け付けない傾向がある。「喫茶店文化」が盛んなことがそれを象徴している。「喫茶店」で、「近所の人」あるいは「顔見知り」と何時間も話す。「自分たちの小さな空間」を何よりも大切にする。私は人から「おちょくっている」と思われている。「おちょくってんのか。お前は」と言われたこともあるし、世間の人が私を見る眼がそういうものだからだ。現に、「おちょくった言動」によって、私自身「酷い目」に遭ったりしてきた。「おちょくる」ことは、非常に「リスク」が大きい生き方であるが、最高の「批評家精神」を養うことができると私は考えてる。「おちょくる」ことを突き詰めていけば、ありきたりな「政権批判」「単純正義」を馬鹿の一つ覚えにのたまう最近の「リベラル派」にはない「ラディカル」な思想に昇華するだろう。最近の大阪特有の文化が根絶してしまったのは、政治や芸能を見れば一目瞭然だ。「維新の会」「吉本興業」といった「汚い権力で庶民を懐柔する」。これほど薄汚いものはない。話が逸れるが、「文春砲」が狙っているのは、松本人志だけでなく、「吉本興業」そして「維新の会」である。「おちょくる」「世間をおちょくった」人が皆無になり「没個性化」した社会で、私は「おちょくり」続けたい。