孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

子供の頃から誰がも「怖がらないもの」を不必要に「怖がった」私 「感受性」の問題なのか「サイコパス」なのか いづれにしても社会で「生きづらい」メンタリティーを持っていた

私のこの社会に適応できない性格は、幼児の頃から形成されたもので、もうどうすることも出来ないと最近思うようになった。「3歳神話説」は、精神医学においては、間違った考え方であり、ただの俗説であるという学説が主流であるが、私は、あながち汎用性のあるものだと考えている。やはり、人間の性格は、遺伝と環境に拠る所が大きい。幼児が、母親との関係によって成長していく。フロイト派の心理学者が、神経症者になる子供は、「母親への愛情を求める欲求を抑圧した結果、母親へのかすかな敵意となって神経症的な不適切な行動を取る」という趣旨の事を論文で発表していた。まさにその通りである。つまり、おとなしくて、物分かりが良くて、行儀正しい幼児ほど、母親に甘えず、大人になってから神経症になったり不適切な言動を取るようになるという説は、非常に説得力がある。私自身も、幼児の頃は、大人しく、物分かりが良かった。その反動として、大人になってから「社会生活不適応者」になったのではないかと思えてならない。ただ、私のそうした問題行動は、幼児の頃から予兆としてあった。おそらく、勉強ができたために、両親も問題視しなかったのだろう。数あるエピソードで強烈なのは、「誰もが怖がらないもの」を不必要に怖がったということだ。例えば、知人の家に両親が私を連れて行った時のこと。その家には、仏壇があり、知人の亡くなった家族の写真がかざられていた。その仏間を、私は異常なまでに怖がったらしい。「仏間」は確かに「神聖な」空間である。しかし、普通の幼児は、そうしたものに異常なまでに反応することはない。やはり私は、「感受性」が人並み以上に強いのではないだろうかと思う。また、もう少し大きくなると、丸坊主にした同じ歳の幼児を見て、「坊主こわい、坊主こわい」と泣いたそうである。その坊主の幼児が道で私の方向に向かって歩いてきただけで、逃げてしまったらしい。これらのエピソードは、ただ単なる臆病で気が弱いだけの問題に収斂できない何かを孕んでいるだろう。その証拠に42歳になった私は、必要以上に怒ったり、不安になったり、感情過多の人間で、非常に困っている。ただ、そうした誰にもない「感受性」を生かしてもう一度社会において「リベンジ」を果たそうという野望を抱いているが、茨の道を歩まなければならないだろう。ただその覚悟はできているつもりだ。