孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

誰にも分かってもらえない苦悩を抱えている私 文才があれば「文学」に救いを求めることができるが 才能がなく出口のない迷路で彷徨っているだけ

先日、「芥川賞」と「直木賞」が発表された。どれもこれも、読みたい作品ではない。どうも最近の「芥川賞」と「直木賞」に選ばれる作品が、くだらないように思えてならない。かつては、もっと重厚な作品が選ばれた。一説によると、「芥川賞」と「直木賞」に選ばれない作家の方が、優れているという。村上春樹高橋源一郎吉村昭などの作家もこの賞を取ってはいない。むしろ、他の賞で選ばれ方が作家として、勲章なのかもしれない。特に、「芥川賞」を取った作家は、一発屋で終わることが非常に多い。おそらく、長く「職業作家」として続けられないのだろう。書く素材がなくなってくるのではないかと思う。「直木賞」の場合は、エンターテイメント性の強い作品ばかりだから、シリーズ物を書くという最悪にケースをたどる作家もいる。私は、あまり「文学」に関心がない。いやほとんど、「文学」に関しては無知である。しかし、作家という存在に憧れてならないのだ。私自身は、自分の内面を深く掘り下げていく性格である。「自意識過剰」というか、子供の頃から、常に自分の苦悩と対峙してきた気がしてならない。外面的には、社交的で明るいように見える。しかし、心のなかには鬱屈した思いで、自己が限界まで追い詰められている。また、度重なる「人生の不運」が重なって、私はますます苦悩が深まるばかりである。そうした心情を「文学」という形で表現できたら、どれほどに自己が救済されるかと考えている。しかし、私には全く「文才」というものがない。以前にも書いたことがあるように、中学・高校の時に現代文の馬鹿教師に「お前の作文は、文章になっていない」とクラス全員の前で罵倒されたことがある種のトラウマになっている。私は、国語より数学が得意であった。「馬鹿現代文の教師」と違って「数学の教師」は、「お前は数学の才能がある」とぽつりと言った。この数学の教師は、凄い方で、学歴も相当であったが、控えめで自慢をするような人間ではなかった。その数学の教師に言われたように、私は、曖昧な「現代文」のような科目より「論理的」「科学的」に筋道を立てて、解答を導いていく「数学」が得意であった。「文才」がない私が、作家のように自らの苦悩を作品に投影することが出来たら、どれだけ自己が救済されるだろうか。残念ながら、私にはそれが出来ない。ただ、これからも、鬱屈した日常を生きていくだけである。