孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

西村賢太 そろそろ風俗に行こうかなと思っていた発言は 野暮の骨頂 本物の作家は「作品の中」でしか自分を語らない

先日、NHKで作家西村賢太の特集を放送していた。ご存じの通り、西村賢太は、2011年の直木賞を受賞して、その記者会見で、「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」と発言して一躍話題になって、その後テレビのバラエティー番組に出演するなどして大活躍した。しかし、昨年に急死した。番組では、西村賢太作を神格化する熱狂的なファンの人たちが、出演し、熱くその魅力について語っていた。西村賢太の作品は、綺麗ごとを一切排して、生きづらい自分を等身大に描くと一般的に認知されている。父親が、犯罪を犯し、自身は、日雇い労働者などをして、鬱屈した日々を送った青春時代。そうした、作風が、「生きづらさ」を抱えた男たちの共感を呼んだのかもしれない。しかし、私は、西村賢太の作品は、非常に「底が浅く、文学と呼ぶ代物ではない」と思えてならないのだ。確かに、私生活は波乱万丈に満ちていたかもしれないが、それを直接的に書くのは、作家としては失格である。私生活の経験に基づいて、誰もが読んで「理解出来得る」「普遍的なテーマ性を持った作品」にまで昇華していくのが、本物の作家である。一部の人だけにマニアックに支持されている程度では、一流の作家とは言い難い。西村賢太のことを「無頼派」などと呼ぶ声があるが、的外れも甚だしい。「無頼派」は、テレビの「バラエティー番組」に出演して、あけっぴろげに自分の事を語ることなど絶対しない。そもそも作家は、「孤独」で「孤高」であるべきだ。夜中に黙々と、原稿用紙のマスを埋めていく。文章を書くということは、大変体力に要るものでもある。一流作家は、「一つの言葉」「一つの文章」を書くのに、私たちの想像を絶するほどに神経を消耗する。作家は、会社に勤める「サラリーマン」ではなくて、「気楽な稼業」と思われがちであるが、相当ハードで精神的にタフでなければ続けられないものである。番組を見て、西村賢太の魅力について語っている人の言葉の軽さだけが印象に残った。西村賢太直木賞の記者会見での「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」発言は、野暮の骨頂である。風俗に行こうが、行くまいが個人の勝手である。しかし、公の場で発言するようなものではない。本物の作家は、「作品の中」でしか自己を語らないものだと私は思う。