孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「子供部屋おじさん」は江戸時代から存在した 武家の次男や三男で「部屋住み」のまま「人生」を終えるという理不尽さ 作られた「男性蔑視」に過ぎない

「子供部屋おじさん」という言葉がある。親と同居している中年男性を蔑視するものである。最近の社会の風潮として、「男性の人権」を蔑ろにしても、許されるというコンセンサスがあるように、私は思えてならない。「子供部屋おじさん」は、一括りに出来ない問題を孕んでいる。まずは、高齢化したひきこもり。近年、「80・50問題」がいたずらに喧伝されている。ひきこもり問題が、クルーズアップされて、20年が経過した。当初は、青年期において誰にでも起き得る心理学的な課題であるかのように見做された。しかし、長期化して、解決策を見出すことが出来ず、中高年になっても、社会との接点を持てずに苦しんでいる人たちが存在する。これは、根の深い問題であるに関わらず、行政は何ら真摯に対応しようとしない。次に、働いているけれども、経済的に余裕がなく、仕方がなく「子供部屋」に住んでいるという「シングルの男性」もかなり存在していることは紛れもない事実である。メディアは、恣意的に「精神的に自立できない情けない男」という紋切型の「恋愛弱者男性」を作り上げているとしか言いようがない。これは、明らかな男性蔑視ではないだろうか。これが、女性を差別する言葉であったとしたらどのようになるか。おそらく、フェミニストたちは、「女性蔑視」だと糾弾して、お騒ぎになるだろう。「男性の人権」を踏みにじっても許されるというのは、あまりにも公平性に欠くのではないだろうか。「子供部屋おじさん」は、江戸時代から存在した。武士の次男や三男は、家督を継ぐことが出来ず、一生涯を「部屋住み」という身分のまま終えた。「ひきこもり」の中には、この江戸時代の「部屋住み」みたいな人たちもいる。精神的に問題がないが、ただ「働いていない」という点で。私が好きな小説で、藤沢周平の「果し合い」という短編小説がある。主人公は、「武家の部屋住み」で、家族からも馬鹿にされている。しかし、最後は、姪っ子のために、命を賭して、剣を抜くという話である。暗さの中に一条の光が差し込むような「味わい深さ」は、藤沢周平独特のものである。「子供部屋おじさん」は、決して「情けない中年男」ではないと確信している。