孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「令和の時代」に天然記念物のような存在の私 何もかもが「時代遅れ」のように見えるが わざと「自己演出」している部分もある 

何時の間にか、令和も5年目に入った。どうも、時代の最先端について行けない自分をひしひし感じる時がある。また、20歳ぐらいの若い奴を見ていると、違う生き物のように思う。いや、同世代でも、私は浮いた存在であるだろうが。私は、子供の頃から人と同じであることを嫌った。何故、人と歩調を合わせなければならないのか。常に人と違うことをしようとして、逆に浮いた存在であった。「浮いた存在」でありながら、他者から攻撃されなかったのは、中途半端に「浮いている」のではなく、ある意味「俗世間」から「超越した存在」に見られ、逆に尊敬された部分もあった。中途半端に、人と差異化を図ると必ず、攻撃されてしまうものである。私のように、変人、奇人に思われるタイプは、攻撃されないことが多い。「いじめ」が起こるのも、「こいつをいじめたら、どんな反応を示すか」を楽しむ人間心理から生じる。私のような「おかしい人間」であれば、「いじめる人間たちが期待する反応」があまり出てこないように思う。言い変えると、「私のようにおかしい人間は、いじめがいがない」ということになる。芸人たちを見ていると、「キャラ」を作ることに必死である。そもそも、芸人たるものは、「キャラ作り」など必要がない。「キャラ」を作ろうとする時点で、その芸人は、絶対に芸能界で成功しないことは必定。「存在しているだけで、笑いを取れる」それが、芸人としての才能ではないだろうか。私自身も「存在自体」がおかしいと子供の頃から思われてきたような気がする。「状況に気付いていない人間のおかしさ」「真面目なのかふざけてるのか」「意味不明なこと真剣に語る」など、私自身の「おかしさ」を挙げれば枚挙に暇がない。私は、そういう特質を「キモがられても」良いと最近思うようになってきた。令和の時代に私のような存在は、ある意味「天然記念物」であると思う。しかし、無理をしてまで時代の「トレンド」を追いかけて、合わす必要などないと思う。「おかしい人間」をある意味「自己演出」しながら生きるのが「生き残り戦略」としてベストであると私は考えている。