孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「トーク力」「話術」などの「コミュ力」があると思い込む人は「中身のない」事を話す場合が多い むしろ「口下手」「寡黙」の人の言葉の方が重みがあると思う

 自身過剰で、自分は、話術に長けて、何千人、何万人の聴衆の前でも話すことが出来るという人がいる。おそらく、自分は、「コミュニケーション能力」が長けていると思い込んでいるのだろう。しかし、そういう人が話す内容を良く良く吟味すると、案外薄っぺらい事しか話していない場合が非常に多い。そもそも、「コミュニケーション能力」とは一体何なのだろうと私は常々疑問に感じてならない。対人スキルが何よりも重視されるようになった。しかし、今の社会が必要としている対人スキルは、「要領良く」その場の空気を読んで、臨機応変に対応することでしかないような気がしてならない。「コミュニケーション能力」はそういった対人スキルを兼ね備えることを第一義とする。私は、「本当のコミュニケーション能力」は、そういった表面的で小手先のものではないと思う。むしろ、不器用であっても、どんな人間に対しても真摯に関わろうとする「誠実さ」「律義さ」こそが「本当のコミュニケーション能力」だと思う。また「コミュ力」が、テレビの「くだらない芸人」に大きく影響されているように思えてならない。最近のお笑い芸人を見ていると、「どいつもこいつも小粒」にしか感じられない。彼らの「笑いを取るための必死の姿」を見る度に、「才能がないなぁ」と言いたくなる。そもそも、笑いとは、そんなものではない。かつて、岡八郎という吉本のタレントがいた。岡八郎が、舞台に立って、まだ話はじめていないのに、聴衆が笑い始めたという伝説がある。「存在しているだけ」で面白く、笑いが取れる、それこそが「本当の芸人」である。「笑わそうと必死になる時点」で芸人としての素質はないだろう。今、学校現場でも、主体的な学びに重きを置き、「自分の意見を堂々と言える」ような教育がなされている。これまでも受け身の学びよりも、主体的な学びを重視するのは、「企業に適応するだけのくだらない人間」を育成するための愚策でしかない。むしろ、口下手、「寡黙」の人の方が、饒舌な人より話す言葉に重みがあるのではないだろうか。