孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

嫌われるようで 嫌われない おそらく次元を超えた私の「キャラ」がある意味で得をするのだと思う

嫌われる人間と言うものが、どこの社会でもある。その人間が属している組織によって、嫌われる人間のタイプも異なってくるだろう。しかし、共通するのは、「空気が読めない人間」であることは変わりないだろう。私は、相当なキャラを持った人間である。最近の子供たちは、「スクールカースト」を生き抜いていくために自ら「キャラ作り」をする。本当に大変な時代になったと思う。「スクールカースト」は、いじめよりも子供にとってしんどくて、重荷になる。私たちが子供の頃にも「スクールカースト」のようなものが存在した。しかし、勉強ができる子、スポーツができる子などと、分かりやすい基準があった。私は、勉強ができたが、強烈な「キャラ」を持っていた。そうした場合は、いじめのターゲットにされがちである。しかし、私は、「あいつは、あんな奴だから」と何か免除をされていたような気がする。それどころか、ある種の尊敬のまなざしで見られていた。おそらく、あまりにも「強烈なキャラ」であるため、普通の人間と違う「次元の住人」として認知されていたのではないだろうか。人格形成は、思春期の15歳ぐらいまでと心理学などで言われるが、私は、「3歳ぐらい」までにその人間の人格のバックボーンはほぼ形づくられると考えている。ただ、私自身誤解を受けてしまうことが頻繁にある。初対面の人が私を見ると、「天然記念物」でも見たかのような反応を示すことがしばしばある。私の外見は、昭和の男くさい顔をしている。令和の時代にあって、東映やくざ映画から出てくるような男は、もはや「天然記念物」でしかない。私は、わざと「東映やくざ映画に出演する役者」を真似している訳でも、憧れている訳でもない。何故かしら、私の顔が、「非常に男くさい」のだ。山口組の司忍とクレージーケンバンド横山剣が似ているように。人の顔は、性格が違っても、偶然に似てしまうことがある。私の場合も、東映やくざ映画に出演する「男くさい役者」に似ているだけなのだ。私は、外見のおかしさと内面の「強烈なキャラ」を笑いに変えて生きていこうと思う今日この頃だ。