孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

街から「暴走族」が消えた 代わりに歌舞伎町では「トー横」「トー横キッズ」 大阪では「グリ下」 「暴走族」の方が「単純」で「人間味」があった

街から「暴走族」が消えた。「暴走族」という言葉自体がすでに「死語」である。昔であれば、夜布団の中で耳を澄ますと、「暴走族」と「警察」のいたちごっこがはるか遠くから聞こえてきた。私の記憶が正しければ、幼少期の頃、眠れない時や、ふと目を覚ました時に、そうした「暴走族」の騒音を頻繁に聞いていたような気がする。今となっては、懐かしい光景の一つになってしまった。「暴走族」の代わりに、「トー横」「トー横キッズ」。関西では、「グリ下」など呼ばれる若者が出現し始めた。仲間たちと夜の街をたむるする子供たちの事を言うらしい。メディアは、「学校」や「家庭」に居場所がない子供たちとして認知して、救済するべきと主張している。しかし、私はその論調に同意しかねる。彼らは、「弱者」ではない。ただの「わがままで、身勝手な子供たち」に過ぎない。また、「暴力団」との関係を取り沙汰されているが、この子供たちに「暴力団員」になれるほどの「度胸」がない。仮に関わりがあっても、「使いぱっしり」にされるのが関の山だ。今年5月に「トー横」の子供が、住吉会系の暴力団員に監禁されたうえに、家族に「身の代金」を要求される事件があった。住吉会系の暴力団員は、少年たちに「覚醒剤」を売ることを持ちかけていたという。これが、昔の「暴走族」であれば、少なからず、「暴力団員」と応戦していただろう。今の「トー横」の子供たちは、喧嘩が弱いのではないだろうか。「暴走族」の場合は、家庭環境が複雑であったり、「やんちゃ」したいとういう分かりやすい動機があった。「暴走族」の中から、本格的な「暴力団員」になった者も多い。しかし、大半は、「青春時代」の一過性のもので、20歳になると、きっぱりと「真面目」に働く者ばかりだった。芸能界には、「暴走族上がり」が非常に多い。一番有名なのは、宇梶剛士である。宇梶剛士は、「アイヌ民族」の血を引いていて、母親は、素晴らしい人間である。宇梶剛士のように、「暴走族」でやんちゃしていた者ほど、大人になると「味わい深さ」が滲み出てくる。1990年代には、「チーマー」なるものがあった。令和の時代は、「トー横」「グリ下」と変遷してきた。「暴走族」の方が、「純情」で「人間くさい」ように私は思えてならない。