孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

大阪府警 またもや 拳銃で発砲し 男性を死に至らしめる 集団でしか行動できない 「ゴロツキ集団」以外の何物でもない

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20日に、大阪府警和泉署に、男性から、「母親が、息子に殺されるとの電話をかけてきたという」110番通報があった。大阪府警和泉署の警察官たちが駆け付けたところ、刃物を持った男性が2階の部屋に立てこもり、複数の警察官に刃物で襲いかかったため、1人の警察官が拳銃を1発発砲し、男性の右胸にあたり、搬送先の病院で死亡した。

 

いくら、男性が刃物で襲いかかってきたとしても、警察官は、体を鍛えているので、男一人ぐらい、取り押さえることができるはずだ。

昨年から、大阪府警の警察官による「職務質問」における、拳銃の不適切な発砲が相次いでいる。

 

集団でしか、行動できず、「弱い者に対しては強く。強い者には弱い」

まさに、警察官の特徴である。

 

昨年からの大阪府警の「不祥事」に目に余るものがある。

 

大して物事に「こだわらない」のに発達障害やHSPという病名にしたがる昨今の風潮に違和感 本当に物事に「こだわる」ことを貫き通すことが出来る人こそが「天才」であると思う

些細な事にこだわる性格傾向があれば、何でもかんでも、「発達障害」あるいは最近では、「HSP」という病気にまでしたがる風潮に私は違和感を抱いてしまう。「発達障害」の過剰診断が問題になっているが、さらに「HSP」という摩訶不思議な病気まで世間に浸透し始めた。少しでも、自分が生きづらさを感じると、「HSP」と自称する人まで現れる始末。精神科医臨床心理士の中には、その人が向き合わなければならない「人生の課題」から目を背けさせて、敢えて、「あなたは、発達障害だから、HSPだから」と診断する者がいる。そうしたお墨付きを与えてしまうと、本人も精神科医臨床心理士の言う事を鵜呑みにしてしまう。これは、本当に厄介なことだと、私は思う。結婚して大きい子供を持った女が、「自分が今になって、発達障害と分った。自分の生きづらさの原因は、発達障害のせいであったのか」と納得するケースが非常に多い。そもそも、本当の「発達障害当事者」であったとすれば、結婚をして子育てを出来ただろうか。「発達障害」は、元々「自閉症」に起源がある病気である。「自閉症」は、知能も遅れて、対人関係も持つことができず、「特殊学級」で学び、通常の社会生活から切り離されて来た。「自閉症」とその家族が、どれだけ社会から差別されてきたのかは想像に難くないだろう。「発達障害ブーム」によって、「自閉症」の支援が手薄になる懸念が非常に大きい。また、「発達障害」特性として、特殊な才能を持っていて、「天才」という間違った認識が共有されている。物事に「こだわる」特性は、ある種の「天才」に近いというものだ。これは、科学的実証性もないものである。HSPにしても、些細の事を気にすることを「繊細さん」と呼んで、肯定的に捉える認識が広がっている。これにも困りものだ。「HSP」を自称する人の中には、繊細よりも「あつかましい」と思われる人が少なからずいる。都合の悪い時にだけ、「自分は、HSPだから」というのは卑怯のように思えてならない。本当に、物事に「こだわる」のは天才であって、社会生活に適応できなくても、我が道を突き進めば良いのではないかと、私は考えている。何でもかんでも「病気」にしたがる昨今の風潮に違和感を感じてならない。

 

愛子さまのお相手が誰であっても 庶民には縁遠い世界 何時から「リベラル派」は皇室に好意的になったのか?敢えて時代錯誤の「天皇制反対」と言いたい

新聞の週刊誌の見出しに、「愛子さま」のお相手が誰であるとかということが大きく掲載されている。はっきり言って、私からすればどうでも良いことだ。メディアの報道は、秋篠宮家には批判的なのに対して、天皇家に対しては好意的な報道をする。リベラル派は、どちらに対しても好意的な感情を抱く。昨年の眞子さまの結婚にしても、あれは、国民を小馬鹿にしたものである。小室圭と小室佳代という胡散臭い親子。小室圭は、NY司法試験に合格してしまったら、誰もそのことを追求しようとしない。「5点足りなかった」という小室圭の言葉は、どんなお笑い芸人のネタよりも面白いものであった。小室佳代と不正受給や反社会勢力との関係についても、結局のところ闇に葬り去られてしまった。篠原常一郎氏が、頑張っているが、氏のやり方には同意しかねる点が多い。篠原常一郎氏は、元共産党員であり、その反動から保守的派に転じたため、思考パターンがあまりにも安直なものである。そもそも秋篠宮家の眞子さまの結婚は、「わがまま」から始まったものに過ぎない。それを多くの「リベラル派」は、「女性の自立」「皇室の在り方が大きく変わろうとしている」など訳の分からない解釈をしてしまった。特に、フェミニストたちは、眞子さまを擁護した。かつては、「天皇」という言葉を聞いただけで、吐き気をする人たちがいた。極左と呼ばれる人たちのみならず、戦争で人生を翻弄された人たちは自ずとそういう反応をした。「天皇の戦争責任」など、もはや論じられなくなった。しかし、私は、天皇に戦争責任があると思う。愛子さまが誰と結婚しようが、庶民には全く関係のないことだ。由緒ある名門の家柄の御曹司に決まっているのに、何故、そうしたことに関心を持ちたがるのだろうか。天皇一家を私たち庶民と近い距離になったと主張する頭の悪い人がいるが、とんでもない事実誤認である。一体何時から、リベラル派は、「皇室」に好意的になったのだろうか。敢えて、時代錯誤の「天皇制反対」と言いたい。

岸本周平和歌山県知事 「路チュー不倫」の門博文を支援 過去には旧大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」を受け 牛丼屋に対して「不適切投稿」 言動不一致の「トンデモ」政治家

時間がないのが、また特別投稿する。

 

クリーンな政治を掲げた和歌山県知事岸本周平が、「路チュー不倫」で世間を騒がした門博文とスクラムを組んで応援するという。

岸本周平は、「クリーンな政治」を掲げた政治家で、街中に立って選挙選を繰り広げるなど、庶民視線の政治家として認知されて、非常に人気がある。

しかし、大蔵省接待汚職事件「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待では、自身を接待を受けたいたことがあった。

また、2020年には、国会内の「牛丼チェーン店」で牛丼を食べて、自身のSNSに、「成長ホルモンや成長促進剤を使ったアメリカンビーフの可能性」があるなどの不適切投稿をした。

「リベラル派」を自認しながら、言動不一致で、権力に迎合する政治家の所業は目に余るものがある。

高知白バイ事件 「ブレーキ痕」は警察の「証拠捏造」か? 身内の警察官の不自然な「目撃証言」 何もかもがおかしい事ばかり 

 「袴田事件」の再審開始決定が決まった。「袴田事件」のように大がかりな弁護団が結成されて、検察側と争うという「冤罪事件」だけではなく、無名の「冤罪事件」がかなり存在する。「袴田事件」の再審開始決定を契機に多くに「冤罪事件」に国民が関心を持つと日本の刑事司法は大きく変革するだろう。残念ながら、そうはいかないと、私は思う。

高知白バイ事件」という冤罪事件がある、一時期ネット上で話題になり、警察を糾弾する声が挙がったが、被告人が有罪判決を受けると、誰も関心を持たなくなった事件である。2006年3月3日の午後、高知県春野町の国道56号で、白バイとスクールバスが衝突して、高知県警交通機動隊の巡査部長26歳が死亡した。バスを運転していた片岡晴彦さんが、業務上過失致死容疑で現行犯逮捕された。バスには「お別れ遠足」で仁淀中学の3年生22人と引率の教師3人が同乗していた。この裁判で、最大の争点となったのは、「ブレーキ痕」が、警察が捏造したか否かという点である。また亡くなった白バイ隊員が、法定速度を超えた時速100キロのスピードで走行していたか、それとも、50キロから100キロの法定速度を遵守していたか。交通事故鑑定人立ち合いによる「バス実験」がなされた。実況見分調書どおり、バスが、急ブレーキをかけると、証拠写真に写った黒々とした「左1,2m、右1m」の「ブレーキ痕」とは全く、長さも濃さも大きく異なる痕が付いた。そして、交通鑑定人が指摘したのは、警察の現場写真には、溝がない、通常タイヤの溝跡が残る点。次に何か液体を塗ったような跡しか見えないという点。警察が「証拠を捏造した」可能性が極めて高い。亡くなった白バイ隊員が、孟スピードで走行していた目撃証人は、27人もいる。白バイ後方を走行していた軽トラの運転手、バスの真後から事故を目撃した仁淀中学の校長と引率の女性教諭1人。そしてバスの乗っていた生徒22人と残りの2人の教諭。一方、白バイ隊員が、法定速度を遵守していたと証言したのは同僚の隊員だけ。しかも、事故現場から100m以上も離れていてその信憑性はあまりにも低い。また、白バイが、日常的に100キロを超える高速走行をしているのを付近の住民が見ている点。27人もの目撃証人の言い分を無視して、裁判所は、警察側に有利な同僚に証言のみを採用した。これは、裁判所が、警察側の言い分を疑うことなく受け入れたという意味で、権力に迎合した公平な訴訟指揮とは言い難い。また、事故後に、30人以上の警察官が、事故現場に集まり、片岡晴彦さんを現行犯逮捕したことは、常識的にあまりにも不自然である。「高知白バイ事件」において、私が何よりも許し難いのは、片岡晴彦さんに有罪判決が言い渡された瞬間に、法廷にいた警察官たちが「喜びのサイン」を送り合ったことだ。「ブレーキ痕」を百歩譲って、警察の「捏造」ではないとしても、「高知白バイ事件」は、高知県警が組織ぐるみで、片岡晴彦さんを何が何でも有罪にしなければならない理由があったとしか言いようがない。片岡晴彦さんは、加古川刑務所に服役して、出所後、再審請求をするが棄却された。何の落ち度もない片岡晴彦さんが、警察組織の面子の犠牲になったはあまりにも理不尽である。残念ながら、警察組織に人権を蹂躙される者は後を絶たないの現実だ。

吉田類 コメントもテキトー 店の名前も忘れる 引っ越しは何回しているのか? それでも生きている 私もあのようにデタラメに生きたいが無理だと思う

私は、吉田類の酒場放浪記を毎週楽しみに見ている。この番組、「俺たちの月9」と呼ばれるほどに、人気があるが、最近は勢いがない。おそらく、コロナの影響ではないこと思う。以前、嵐の番組で、「酒場放浪記」が紹介されて時に番組で大爆笑されていた記憶がある。まだ、世間に認知されていない頃であるが。嵐のような「ジャニタレ」に「吉田類のような面白さを表現できるのか」と私は叫んでやりたくなった。「普通のおじさん」が酒を飲んで、俳句を詠むだけの番組で、これだけマニア受けする番組があるだろうか。全身黒づくめで、酒に強いとういうが、「舌が回らずに」何を言ってるのか分からない時もある。店の名前も忘れて、コメントとも、「テキトー」で、詠む俳句も下手くそである。しかし、吉田類にしか出せない味がある。金曜日にも「女酒場放浪記」という同じ局で、同じコンセプトの番組がある。しかし、これが見るに耐えない代物なのだ。出演する女のタレントが全く面白くない。ただ、自己顕示欲丸出しで、テレビに出たいだけの人間にしか見えないこと。やはり、吉田類が、どれだけ良い味を出しているかを物語っていると思う。私が吉田類に番組を愛して止まないのは、吉田類のように生きたいからである。私は、どうも神経質で、完璧主義者で、小さいことにこだわってしまう。だから、吉田類の出鱈目な生き方に憧れを抱くのである。私は、酒が飲めない。時々、ロング缶のチューハイ9%をやけ呑みすることがある。どうしょうもないくらい腹が立って眠れない時に、ロング缶のチューハイ9%を流し込むのである。そうすると直ぐに眠ってしまう。しかし、翌朝は、二日酔いで地獄である。酒を飲めれば、浮世がどれほど楽になるかと思う。吉田類は、遅咲きに人である。60歳を過ぎて、ブレイクした。芸能人ではないが、今や大晦日の特番では欠かせないほどの有名人になった。吉田類を見ていると、野心のようなものがない。「自分が、自分が」と人を押しのけて、または人を蹴落としてまで。そういう自然体な生き方が多くの人共感を呼ぶのだろう。吉田類、番組の中で、「以前、この近くに住んでたことがありました」が口癖である。「何回、引っ越しをしているのか」と思わず、突っ込みを入れたくなる。もしかして、反社会勢力からの借金の追い込みから逃げているのか、それとも非合法活動をしている極左集団の一員か?いずれにしても、吉田類恐るべし!

「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんでえ」by「極道の妻たち」で十朱幸代が啖呵を切るシーン それが今の私の心境だ

「極道の妻」という映画がある。私は、先入観があって、今まで観たことがなかった。しかし、何か月か前に再放送しているのを見て、非常に面白く、上手く撮っていると意外性を感じた。70年代の「男くさい任侠映画」が世間受けしなくなったので、東映次の一手を模索していた。その時に、これからは、女性の時代だから、家田荘子原作の小説を映画化するとヒットするのではないかと企画したのだろう。「極道の妻」という映画をここまで世に送り出した功労者は、脚本家の高田宏治であると、私は思う。高田宏治は、「女性」を描くのが非常に上手い。微妙に揺れ動く女ごころを緻密に描く。一般的に東映やくざ映画の脚本家は、「女を描くのが下手」である。大監督である深作欣二監督でさえ、男と女の情愛になると、手薄な演出となると評論家たちからの指摘があるほどである。何故、高田宏治は、女を描くのが上手いのか。町工場の子供として生まれ、母親が、男まさりで、父親の影が薄かった。その強烈な個性を持った母親の影響が大きいこと。そして、最大の原因は、高田宏治自身が、「女好き」で私生活においても、恋愛経験が豊富であったことだ。ただの女好きでは終わらず、高田宏治は、女に騙されて、多額の借金まで背負うという修羅場を経験している。そういう「リアルな体験」が、高田宏治のシナリオ創作の「原動力」となっているのだろう。高田宏治は、深夜に、自分が書いた「セリフ」を絶叫しながら、シナリオを独り書き続ける。物書きとうは、ある種「狂気」を持っていなければ優れた作品は生まれない。そういう意味で、狂気を持って、創作に臨んでいる作家は、現代では皆無である。ただ、小手先の技術で、文を羅列しているだけ。高田宏治は、「極道の妻」で数々の名台詞を創作した。私が一番好きなのは、第2シリーズのラストで、十朱幸代が、大暴力団の組長に「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんで」と啖呵を切るシーンである。「弱小の暴力団」が「大暴力団」に立ち向かっていくという筋書きは、よくあるパターンである。しかし、高田宏治が描いた「ドラマ」はそれらとは一線を画す。男の場合は、「ナルシシズム」に陥りがちである。「極道の妻」は、女が主人公なので、「ナルシシズム」を一切排して、己を捨てる覚悟が男よりも尚一層激しい「情念」になる。私は、社会的地位がない故に、ある社会問題を論じても、「お前ごときが、論じるな」と言われている状況にある。しかし、私は、専門家が体験していない、「リアルな体験」をした。この体験をした者は、日本の中でもほんのごくわずかな人たちである。そうした人たちは、声を挙げない階層の人たちである。私は、本やネットで知ったことを断片的に書いているのではないということだ。「リアルな体験」を契機にある社会問題に関心を持つようになったのだ。だから、私は、十分に論じる資格がある。私を馬鹿にする人たちに「虫けらやと思ってナメとったら その首飛ぶかもしれまへんでえ」と啖呵を切ってやりたい心境だ。