孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

長渕剛が主役を演じるべき ジャニーズと勘違い女優のくだらないドラマを駆逐するは、「長渕剛的ドラマ」だ

テレビドラマがくだらなくなったのは何時の頃からだろうか。昔は、もっとましなドラマがあったように感じる。ジャニーズを中心に、演技力のない、知名度だけがある、タレントを主役にした、軽薄なドラマばかりで、大人の鑑賞に耐えうる作品がほとんどなくなった。NHKの朝ドラや大河ドラマにしても、豪華俳優陣が出演して、国民的に注目されているのだろうが、とても見れたものではない。NHKのドラマは、昔から、基本的にフイルム撮りではなく、ビデオ撮りで、映像の質感がなく、映画には到底及ばない。昔は、テレビドラマは、映画業界から馬鹿にされていた歴史があった。しかし、70年代後半に日本映画が斜陽化して、映画監督たちが、テレビドラマを作るようになって、質が向上し、数々の名作を残した。70年代のテレビドラマは、シリアスで反社会的なドラマが多く、考えさせられものが多かった。80年代に、「なんとなく、クリスタル」の影響を受けて、ドラマの質が低下し始めた。その動きを止めようとしたのが、長渕剛の一連のドラマだ。1988年の「とんぼ」で主演を演じることによって、長渕剛は、新境地を開いた。これまで、軟な、フォークシンガーのイメージを一新して、「マッチョな男」に変貌を遂げた。権力に立ち向かう、「一匹狼のやくざ」を演じることが多くなって、すっかり長渕剛の強面キャラが、世間に共有されることになる。「とんぼ」の最終回の、やくざ者に刺されて、血まみれになるシーンはあまりにも過激であるが、その制作意図は十分理解できる。長渕剛のドラマは、「世の中が悪い」という純粋な正義感があり、それが暴力となって露呈するパターンが多い。「シャボン玉」の最終回でも、群衆相手に正論を吐くが、理解されず、哀川翔山田辰夫の3人だけで、去っていく。一連の「長渕剛ドラマ」は、バブル景気に浮かれ、大切なことを忘れてしまった社会への怒りの告発ではなかったかと思えてならない。長渕剛は、極真空手をすることによって、肉体改造する。長渕剛は、「肉体的なコンプレックス」を持っていた。男は、ある時期異常なまでに、「肉体的な強さ」にあこがれる時期がある。私も、高校時代、大学時代がそうであった。ランニング、空手などをして、自らの肉体に異常なまでに固執した。しかし、ある時期を過ぎるとそうした思いがなくなってしまった。長渕剛は、今でも体を鍛えている。果たして、これが良かったのだろうか。個人的な見解を申すと、「長渕剛が、体を鍛え、マッチョな体に固執した」ことは、彼の役者としてのキャリアにとって、マイナスでしかなかった。アクションスターならともかく、役者は、人生の年輪を積み重ね、その時にしか出せない味がある。長渕剛は、そういう意味では、役者としては失敗したと思う。しかし、長渕剛は、情熱と信念の人である。1979年の7月に愛知県で開催された、吉田拓郎の「アイランドコンサートin篠島」に特別出演して、ステージに立ち、ギター1本で歌うが、観客から「帰れコール」を受ける。しかし、長渕剛は、観客に向かって、「帰れって言うんだったら、お前らが帰れ」と言い返した。このエピソードは有名であるが、長渕剛の反骨精神を物語っている。ジャニーズタレントと演技力のないくせに、偉そうに、気取っている、自称女優たちに、そしてテレビ業界に旋風を巻き起こすことができるのは、長渕剛しかいない。