孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

運不運も才能のうちか? 何をやってもついていない 人間の運命はあらかじめ定められていると思う 結局は居直るしかないのか?

勝ち組と負け組とういう言葉は、古くなったが、現代を象徴するものだと思う。就職や恋愛・結婚において、常に勝者と敗者の二極化が年々進んでいると思う。昔だったら、一度つまづいても、また立ち直る機会が用意されていた。しかし、現代は、何事も、効率を優先する新自由主義的社会では、そのようなチャンスが平等に用意されていない。雇用においても、年功序列より、ジョブ型が優先される。新入社員で会社に就職しても、人材を育成する余裕など、企業にはない。企業が求めるのは、即戦力のある者だけで、少しでも能力が劣っていたら、どんどんと切り捨てられていくだけである。アルバイトにしても、同じことである。コンビ二アルバイトなど誰でも出来ると思われているが、大間違いである。場所によって、かなり雇用条件が異なってくるが、私は、大学時代に、「大阪の北新地」のコンビニでアルバイトをしたことがある。名前は、出せない。しかし、最悪の職場であった。「大阪の北新地」と言えば、東京で言えば、「銀座」にあたるだろう。有名芸能人がお金を使いに来る場所であり、飲み屋のママを中心に、店で働いている人間も、プライドが高い鼻もちならない人間ばかりであった。私が、ミスをする店に電話をする。些細なことで、キレる客など、思いだしただけでも腹が立つ。私は、そんな手合いに、頭を下げるのが嫌で、逆切れしてしまい、自分から辞めてしまった。おそらく、コンビニの店員に偉そうにする人間は、全国どこにでもいるだろう。しかし、北新地の客の場合は、「自分たちは、有名芸能人と面識があるという特権意識」が見え見えなのである。私は、他のアルバイトもしたが、すべてうまくいかなかった。ここで、私の弟のことを例に出したい。弟は、大学生の定番の「家庭教師」のアルバイトしかしていない。就職も、無難な国家公務員を選んで、26歳で結婚して、私生活も順調である。私が弟に嫉妬しているのではないことだけを強調しておく。弟の人生を見ていると、「他者から酷い仕打ちを受けたことがない」「何の挫折も知らない」と感じてならない。こうしたことを両親に言うと、「弟は、弟なりに苦労している」と、弟の肩を持ち、「ひきこもり」である私を断罪する。両親の想像力の欠如、他者の痛みへの鈍感さには、怒りを通り超して悲しくなる。弟は、偶然に、人生が上手くいっているだけであって、もし私のような酷い経験をしたら、間違いなく、押しつぶされていくだろう。私は、人間には、生まれついて、「運不運」が定められていると思う。成功者が、不運に負けずに努力が実り、「逆境に負けずに、頑張れば、人生の活路を見出すことができる」というような訓示する。しかし、これは結果論であって、実際は、「努力は報われない」のが大半である。悲しいかな、定められた運命を受け入れて、居直るしかないのが人生だと思えてならない。