孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「映画」のように人生は格好良くいかない しかし天才は自分でくだらない「シナリオ」を上手く改訂しながら「スタイリッシュなドラマ」を描いていくと思う

私は、映画狂と言ってもよいぐらい映画が好きである。特に、余韻のあるエンディングで幕を閉じる映画が好きである。しかし、最近の日本映画は、本当に大人の鑑賞に耐えうる作品が皆無になった。映画は、プロデューサー、シナリオ、監督の3大要素でほぼ作品の完成度が決まったものだと思う。主演俳優は、どうなるのかという反論があるかもしれないが。たとえ、演技力があって、日本を代表する名優であっても、その映画の主役に合わない「ミスキャスト」であれば、全然意味がないと思う。かつて、黒澤明監督と勝新太郎が映画「影武者」を巡ってトラブルになったことがあった。最初は、黒澤明監督は、勝新太郎にラブコールを送って、2人の関係は良好であった。しかし、「映画への考え方の相違」から、二人は仲違いして、最終的に喧嘩別れとなり、代役として仲代達矢が選ばれることになった。名優勝新太郎が、「影武者」の主役を演じていたら、絶対に「ミスキャスト」であったことは間違いないだろう。しかし、「影武者」という映画自体は、セカイの黒澤にしては、あまり出来の良くない作品であった。私が、「映画」が好きで、自らの人生も「映画」のようでありたいという想いが他人より強すぎるために、「理想」と「現実」のギャップに苛まれて、「社会生活不適応者」になったのではないかと思うようになった。私たちが生きていく人生は、「映画」のように格好良くないし、面白くもない、くだらないものである。「映画」のように、普通の人は、世間の人から注目されるような存在ではないし、素敵な恋愛をできる訳でもない。しかし、自分なりの「映画」なら制作できるのではないだろうか。優れた「映画」を撮る映画監督は、シナリオ通りには、演出しないとい鉄則がある。私が好きな映画監督で、工藤栄一という人がいた。工藤栄一監督は、現場で、「シナリオ」を大幅に改訂していくことで有名であった。そのためか、シナリオライターから嫌われていた。しかし、工藤栄一監督の作品は、纏まりがなく、評論家受けせず、マニアックな映画通から大絶賛された。何故ならば、映像から、「情念」がにじみ出ていたからである。「映画」は、シナリオ通りにはいかないということは、優秀な映画監督であれば誰もが身に染みて感じることだと思う。シナリオライターは、頭で「映画」の構想を練る。しかし、現場では、映画監督の考えとシナリオライターとの意見の相違、予算の関係、俳優どうしの人間関係など様々なアクシデントが起き、「シナリオ」の一字一句変えずに撮影するということは不可能である。優秀な映画監督は、上手く「シナリオ」を改訂していく。こうしたことは、「人生」にも通じるのではないだろうか。「格好良くない人生」であっても、自分なりに改訂して、「スタイリッシュなドラマ」に仕立て上げていく。「天才」と呼ばれる人ほどそういったことを上手くしている気がしてならない。