孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

大声で怒るうちはまだ「本当の怒り」ではない 本当に社会から理不尽な仕打ちを受け続ければ「静かな命の炎」を燃やし寡黙になると思う

デモなどで、「良識的市民」と呼ばれる方々が、大声で政府に対して声高々に独善的な主張をしている姿を見ると、私は、胡散臭いものを感じてならない。彼らがやっていることは、上っ面だけの「パフォーマンス」に過ぎない。仮に、本当に問題意識があって、政府に対して異議申し立てをするのであれば、ひとりでするべきだと思う。徒党を組んでしか、行動できないのはあまりにも臆病で情けない。2015年に話題になった学生団体である「SEALs」というふざけたグループがあった。リーダーの奥田愛基は、明治学院大学の学生で、作家の高橋源一郎に気に入られていた。また父親も牧師である。私は、どうも奥田愛基が好きになれなかった。従来の「学生運動」のように泥臭く、汗臭くなく、おしゃれでポップな所が、斬新であり一部の有識者から評価されたのだろう。しかし、彼らを見ていると、「本気度」がないのである。「SEALs」のメンバーで社会問題に関心を持って活動をしている者も中にはいるが、多くの者は、平凡な社会人の道を選んだ。「怒り」というものは、人間の根源的な感情である。ただ現代人が持っている「怒り」は、底の浅いものであり、本当に「社会から理不尽な仕打ちを受けた」ものではない。あまりにも酷く、生死をさまようような体験をした者は、怒りを通り超して、「静かな命の炎」を燃やし続けるようになるものである。おそらく最初は、大声で叫んだりする。しかし、自らの運命があまりにも過酷で修羅の道を歩まなければならなかった時に、人は、寡黙になるものだと私は思う。しかし、現代において人は、怒ることすらなくなった。ただ楽しければ良い、自分の幸せ自慢だけ。SNS上で、馬鹿げた写真を掲載して自己満足する思慮浅はかな人間があまりにも増加した。社会から理不尽な仕打ちを受けた者は、ひっそりと社会の片隅で生きている場合が多い。彼らは、世間を呪い、絶望したが、次第に従容と「自己の過酷な運命」を受け入れて、「静かな命の炎」を燃やし続けるようになる。こうした人物が報われる社会になることを私は望むばかりだ。