孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「私憤」が普遍的な正義になることもある 現代の「リベラル派」は「借り物の知識」を振りかざしているだけであり、底が浅い

最近、「単純正義」を声高々に主張する人があまりにも多く、私は不快に感じてならない。「リベラル」を自認する人あるいは、「良識的市民」と呼ばれる人たちを見ていると、自分の言葉で何かを語ろうとしていない。私が再三ブログで、朝日新聞の声欄に投書する「良識的市民」を批判するのは、彼らの書いた文章に「パッション」のようなものが全くなく、どこかから借りてきた知識を披歴しているだけなのが見え見えだからである。「朝日新聞」の場合は、「安っぽい政権批判」「選択的夫婦別姓制度」「ジェンダー平等」という3つのタームに限定されていると言っても過言ではない。私が感じるのは、最近「本気で怒っている人」が少なくなったということだ。「本気で怒っている人」は、「私憤」で社会に異議申し立てをする。「社会を変えようとか」、「社会を良くしようとか」そういった大義名分がない。ただ、自分が、社会から組織から、理不尽な仕打ちを受けたという恨みのみで行動する。私がかつて、高校生だった時に戦争を体験した大正生まれの老人が非常勤講師として、日本史の授業を受け持っていた。私が通っていた高校は、私立高校であったため、公立中学や公立高校を定年退職したベテランの教師が非常勤講師として短時間の授業を教えていた。私は、母校が嫌いであるが、この非常勤講師の方々は、かなりの年配で、人生の苦渋を経験された方が多く、非常に人間味のある人たちだった。特に印象に残っているのは、日本史を教えて下さった大正15年生まれの方である。この方は、戦中派で、シベリア抑留という壮絶な体験をされた。授業中は、独り言のように「自らの戦争体験」を語っておられた。それも、恨みを込めて。天皇陛下が、何かの行事で来ることがあった時に、「洗濯物を片付けて下さい」と言われたそうである。この老先生が取った行動が、「洗濯物など、片付ける必要がない。私は絶対に従いません」と反抗したそうである。「天皇の戦争責任」という過激な主張をする人間が稀少になった。しかし、この老先生のように「自分が戦争で酷い仕打ちを受けた」人間は、天皇や皇室に対して嫌悪を抱いて然るべきである。この老先生は、「戦争体験」によって過激な思想を持つに至った。実生活で、「己の人権が侵害された時に、社会問題と対峙する」これこそが本当の「思想」であると私は考える。