孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

幸せそうな人を見て むしゃくしゃしたなどと「自分の人生を呪い」 人はそう簡単に「無差別殺人」を起こさない 本当に「社会の最底辺」でサウンドバックのように殴られても我慢している人の方が多い

「無差別殺人」の犯人の犯行動機として、「幸せそうな人を見て、むしゃくしゃした」などと「自分の不幸な人生を呪う」ようなものがある種の紋切り型になっている。確かに「自分の人生が不幸」であれば、「幸せそうな他人」に対して嫉妬ぐらいはするだろう。しかし、「殺人」という一線をそう簡単に人間は越えないものである。「幸せそうな女性」が気に食わないと供述している対馬悠介被告の犯行が、「フェミサイド」と言われて、フェミニストが大騒ぎした。しかし、実際に「フェミサイド」と思しき犯罪が度々頻発している訳ではない。どうも、フェミニストというのは、「女性の人権」が少しでも侵害されたと思い込んだら、ヒステリックに大騒ぎするのだろう。あまりにも「単細胞」な人間たちだ。「無差別殺人」を起こす人間を「無敵の人」と呼ぶ風潮もいかがなものかと私は思う。個々の事件によって、犯人の置かれている環境が全く違うのに、あたかも「同じ犯罪者」として見做すことによって、「事件の本質」を見逃してしまう。「法界悋気」という言葉がある。「モテない男」という本がベストセラ―になった小谷野敦という作家がいる。小谷野敦は、「モテない男」の中で「オレは、東京大学を卒業したんだよ。それなのに隣のアホみたいな男が、女とイチャイチャちゃがって」という趣旨の記述がある。小谷野敦は、自らのそうした感情を「法界悋気」と呼んでいる。「小谷野敦は、確信犯的なところがあって、やはり作家だなぁ」と私は常々感心している。大半の人間は、「自分が不幸であっても」、ごまかして生きているのではないだろうか。現代において、最も看過せざるを得ない問題は、社会の「最底辺」で生きていながら「自らが受けた理不尽な仕打ち」をじっと我慢している人たちの存在だ。「最底辺」の仕事に就く人は、子供の頃から「いじめられてきた弱者」と言っても過言ではない。生まれてから死ぬまでずっと「社会的弱者」であるという過酷な現実。そうした人は、「無差別殺人」を起こすことはない。ただじっと「社会の理不尽」に耐えているだけ。喩えれば、「サウンドバック」となって殴れ続けているようなもの。こうした現代社会の「リアル」の方が残酷ではないだろうか。