孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「非モテ」を擁護する振りをしながら 根底では優越意識を持っている評論家もどき 彼らは、「フェミニスト」に従属し「リアルな現実」を批判しない

先日、朝日新聞の記事で、杉田俊介が、「非モテ」について論じている記事を読んで、不愉快で仕方がなかった。杉田俊介といえば、「非モテの品格」という本を書き、「恋愛弱者男性」について考察し、論陣を張っている。しかし、杉田俊介の論調は、現実の「恋愛弱者男性」の生態を描いているとはとても思えないのだ。先日の朝日新聞の記事では、非モテの男性が、「自分が女からモテない」という恨みから、犯罪を犯すという導入部分で記事が書かれていたのには非常に驚くと同時に唖然としてしまった。「フェミサイド」という言葉がある。「恋愛弱者男性」が、抵抗のできない女性をターゲットに襲うというような犯罪を示すものである。昨年、京王線で「幸せそうな女性を狙った」と犯人が犯行理由を語ったことで、フェミニストたちは、大騒ぎした。この事件の被告の場合は、特殊であって、そうした犯罪が偶然起きたから、「恋愛弱者男性」=「犯罪予備軍」という図式は、あまりにも短絡的で、人権侵害も甚だしい。実際は、「恋愛弱者男性」は、声を挙げることなく、「申し訳なさそうに」社会の片隅でひっそりと暮らしている。杉田俊介が「非モテの品格」という本で主張したことは、「男らしさ」から降りて「あるがまま」の自己を受け入れることが大切であるという、非常に耳心地が良いが、所詮きれいごとを並べ立てただけだ。結局のところ、杉田俊介が言いたいことは、「恋愛できない、結婚できない」という「固定観念」に呪縛されず、生きるべきというものである。換言すれば、「非モテ」は、「恋愛や結婚」を諦めろという暴論でしかない。杉田俊介のみならず、男性学という学問を研究している田中俊之始め、そうした論を展開する手合いがあまりにも多い。彼らの言説は、「フェミニズム」思想の支配下にある。「男性学」を研究するのであれば、何故、これほど「生きづらい男性」が増加してきたのか。その社会的背景についてまで、マクロの視点で考察しなければならないはずだ。しかし、彼らは、「男性の人権が蔑ろにされても許される社会」というリアルな現実を直視しない。「男性学」という学問を確立するには、「フェミニズム」と対峙する必要がある。それをぜずに、「フェミニスト的」なものが社会の権力になっている現状に恐れをなして、戯言をのたまう始末。地に足を付けて、男女の「非対称性」に言及する勇気ある者がいないのが残念でならない。