孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「非モテ」と名乗って モテようとする男の計算高さ

非モテ」というタイトルの本がかなり出版されている。最近、「非モテから始める男性学」を読んでみたが、どこか違和感を感じた。この著者は、本当の非モテではないということが、ひしひしと伝わてきった。「非モテ当事者会」を主宰し、積極的に活動してる時点でうさん臭さを感じてしまう。本当に、モテない男は、声すら上げる事ができずに、社会の片隅で、申し訳なさそうに生きているのではないだろうか。「非モテ」を論じると、「男らしさ」からの解放という考えに集約してしまう傾向がある。これは、男性学という学問が所詮、フェミニズム思想に従属したもので、確固とした理論が確立されていないからではないだろうか。「彼女ができない、ダメな自分を受け入れよう」という彼らの主張は、一見耳障りが良いが、恋愛弱者男性を突き放した、とんでもないものだ。何故、これほど恋愛弱者男性が増加したかについて、全く言及されていない。女が男の顔を品定めするようになったからだと、はっきりと言ってやればいいのに、彼らは、絶対そうはしない。何故なら、ミソジニーであるとか、逆に、女性蔑視、女性差別という反撃にあい、猛烈な、フェミニストたちから吊るしあげられるからだ。「モテない」ことを、自己責任に帰するには、あまりにも酷な社会になってしまった。見るからに、オタクで空気を読めない男は、モテないのは当然である。しかし、そうしたケースは稀で、「ごく普通のルックスの男が、モテない」ことが、当たり前になってきていること自体が異常なのであって、問題視するべきことだと思う。男の顔面偏差値のハードルが高くなりすぎたためである。恋愛や結婚について、論じると建前ばかりの綺麗ごとに終始してしまう学者先生があまりにも多い。もっとリアルな男女の生態を、これでもかと言うぐらいに暴き出す必要があるのではないだろうか。「非モテ」当事者と名乗る男たちが少なからずいるが、打算が見え見えで、嫌になってくる。彼らは、「モテない」と思っていない、「モテない振り」をして、あわよくば、「モテるチャンス」を探している。本当に「モテない男」を冒瀆する行為のように思えてならない。