孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

将来は ナマポ 生活保護受給者になるだろう私にとって 家族が集まる「正月」はこれで終わりかと毎年思う 「正月」を孤独で暮らしている人の存在が不可視の社会 

今年も私の家に弟夫婦と姉夫婦が集まって、「一見幸せな元旦」の一日が無事終わった。「一見して」と但し書きをしたのは、私だけが「不幸のどん底」にいるからだ。私は「人を見抜く目」が人一倍あるつもりだ。私が悪口を言う人間は、「それなりの理由」があっての事で、「誠実に生きている人間」の事は絶対に貶したり、貶めたはしない。私の弟を見ていると、どうも「要領」と「運」だけで生きているから、「苦労を知らずに、一人前の顔をするなぁ」と思えてくるのである。決して、「嫉妬」や「妬み」「嫉み」で批判する訳ではない。姉の方は、学童期において苦労して、それなりの人生の辛苦を嘗めていて、今は幸せなので、私は絶対に悪口を言う事はない。「正月」を迎えて、家族が集まる度に、「大勢で食事を取る正月も今年で終わりかもしれない」と毎年私は思う。というのは、私のような「社会生活不適応者」は将来「ナマポ」所謂「生活保護受給者」になる可能性が極めて高いからだ。「財産」があれば、良いのだが、生憎「不動産」も所有していない。正月になると「メディア」はこぞって、「幸せな家族」の姿を報道する。「おじいちゃん、おばあちゃん」のところに行く小さい子供とその夫婦。幸せなカップル。すべての人が「正月」を幸せに過ごしているのではない。刑務所にも「正月」があるのである。昨年亡くなった「布川事件」で「再審無罪」となった桜井昌司さんは、「お餅のある正月」を迎えたいと「獄中の中」でいつも願っていたという。共犯者とされた杉山卓男さんも同様に。「刑務所」の中でも「受刑者たち」は正月がある。しかし「娑婆の人間」のような「普通の正月」には到底及ばないものである。「刑務所」ならずとも、「生活保護」を受給して、「ボロアパート」で独りで「正月」を迎える人たちも多い。その人たちの「絶望的な孤独」など「幸せな人生送っている人たち」には到底理解できないだろう。私も心の底から「正月」を楽しんだ時期もあったが、遠い昔の事だ。私が歩み道は、「修羅の道」だ!