孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

何のための入試改革か

共通一次センター試験、そして今年の大学入試共通テストと呼び名を変えただけで、実質的には、大きな変革がなされたとは、言い難い。大学受験を真面目に勉強した記憶がないので、あまり声高く言う資格がないのは分かっているが、言わずにはいられない。思考力や応用力が試される問題が、増えたとう言うが、はなはだ疑問である。本当の学力を調べるのであれば、全生徒が受けるテストで、まず足切りにして、2次試験を課すという制度自体を廃止するべきではないのか。共通テスト対策がしきりになされて、結局は、小手先の受験技術を要領良く身に付けた者勝ちという風になるだけである。大学全入時代で、選ばなければ、どこの大学にも入学できることも以前と変わらない。2000年代初頭、分数の出来ない大学生が話題になった。あれは、誇張もあったが、20年経過して、もっと状況はひどくなている気がする。本当の学力について、文部科学省は、真剣に検討したとは、到底思えない。新時代に対応する学力が、求められているようである。「アクティブラーニング」、「GIGАスクール構想」にしても、学力格差をより強化させるだけのように思えてならない。アクティブラーニングなど、企業に適応できる人材を育成するために過ぎない。この「アクティブラーニング」について考える際に、森毅の一連の著作が、大きな示唆に富んだ見解を示してくれる。その1つとして誤った答案用紙を、模範解答より重視して、クラスのみんなで議論してはどうかと森毅氏は、提案している。これ程、数学教育の本質を見ぬくのは、知性に裏付けされた証といえるだろう。森毅氏の文体はやさしい、落ちおこぼれの生徒を思いやる心情が行間からにじみ出ている。京大文化人の中では、異色の存在で、テレビ出演も多く、その飄々とした人柄が、愛されたのもうなずける。文部科学省のエリート官僚には、教育改革は任せられない。もっと、外部の声を反映する、システムが、必要なのではないだろうか。