孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

小学校5年生の時に作文で「ボーリング大会に初めて行きました」と書き クラス全員がドン引き 私の家は上品で真面目過ぎた その反動で「ダメ人間」になった気がする

小学校5年生の時に、地域の公民館の活動で、「ボーリング大会」に連れて行ってもらったことを作文に書き、クラス全員が、歓声をあげたことが、41歳の今になっても忘れられない。何が言いたいのかというと、私の家は、真面目な家庭で、「ボーリング」のような娯楽すら子供に体験させないということだ。だからと言って、勉強を強制する教育パパ、ママでもない。ただ、世俗に汚れた所がない、純粋の親であり、子供は、「こうあるべきだ」といった教育方針のようなものを持っていた。おそらく、父親も教師であり、母親の父も教師、そして母の兄である伯父も教師、伯父の伴侶も教師という親族が教員ばかりの家系が影響していると思う。「精神医学」の本を調べていたら、「教師と牧師の子供に何らかの心の問題が生じやすい」という記述を目にした。おそらく、これは、科学的な根拠があるかないかはわからない。しかし、およそ当たっているのではないだろうか。教師と牧師は、聖職者と言われて、何かと世間一般の人たちから尊敬される。そのため、自ずと、堅苦しいライフスタイルを取らざるを得ない。そうした抑圧が、プレシャーとなって、時には「性犯罪」などの犯罪を犯してしまう者が出てくる。教師と子供もまた、二極化しやすい。何の挫折もなく、順調に行けば、「超エリート」になる。一方、私のように何かにつまずいた時には、「社会生活不適応者」になってしまう。伯父の子供たち、つまり私の従妹たちは、エリート街道まっしぐらに進み、もはや私と住む世界が違う住人になってしまった。教師が他人の子供に対しては、良き理解者で、人格者であるが、自分の子供にはそうでないというケースがある。灯台下暗しと言うが、私と父親の関係などはその最たるものであろう。他人の子供を理解できるが、自分の子供の気持ちには鈍感というのはあまりにも皮肉なことである。私自身の人生を振り返ってみると、「こうあるべき」という頑な道徳的観念を子供の頃から無意識に身につけてきた気がしてならない。人間の性格は、環境と遺伝によって形成されるもので、中年になろうとしている今、私は後悔ばかりしている。