孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

思い描いていた「理想の自分」と「現実の今の自分」のギャップを受け入れられない 普通は「折り合いを付けて生きていく」のが大人であるがそれが出来ない私

私は、42歳になる「現実の自分」をいまだ直視できないで懊悩する日々が続いている。振り返れば、思春期の頃は、自分というものが「何物にでも」なれると思っていた。進学校に通っていて、勉強も出来て、優等生であったからである。しかし、あれから20余年が経って、今の自分は、社会生活不適応者で、みじめな中年男に成り下がってしまった。それにもかかわらず、私はいまだ「自分が何物か」になれ得ると心密かに思いながら生きている。おそらく、傍目には、「イタイおっさん」にしか映らないだろう。精神医学的には、「肥大した自己」をいまだ中年になっても、持て余していると分析されるのが落ちであろう。健常な人間は、年齢とともに、「肥大した自己」を捨て去って、「リアルな自己」受け入れていくものである。それが、正しい精神発達の過程である。しかし、私には、それが出来ない。まだ、自分は、人と違う何かを成し遂げることができるのだという根拠のない自信を持って日々暮らしている。ただ、私が人に誇れることがあるとすれば、「努力家」であるということだ。例えば、以前にも書いたことがあるが、「少し体型が太った」と他人から指摘されれば、次の日から「ランニング」をし始めて、もう2年以上毎晩、食後に走り続けている。雨の日もフード付きのジャージを着て走る。一昨日の雪の日でも走った。南国育ちの私にとって、一昨日の「大雪」は、さすがにしんどかった。自分が決めたルールに忠実であること。それが、社会との軋轢生み、「社会生活不適応」になった原因なのだが。大人になるということは、自分とも世間とも折り合いを付けて生きていくことである。誰しもが優れた才能を持ちあわせている訳ではない。何かを成し遂げることができる人間は、ほんのごくわずかの恵まれた才能の持ち主だけである。たいていは、自分は、「凡夫」であるという事実を嫌がうえでも認めるものである。私は、いまだ自分が「凡夫」である現実を受け入れられず、実現不可能な夢を抱いて、今日も模索している。