孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「清貧」に生きたいと思いながら どこかで名声を得たいと思う自分がいる その「桎梏」で今日も悩む私

「清貧」という言葉は、貧しくても、心清らかに生きるという意味である。この言葉が、有名になったのは、作家の中野孝次が、「清貧の思想」という本を書き、一躍ベストセラーになったことである。中野孝次が、「清貧の思想」を書いたのは、バブル景気に浮かれている日本人に対する戒めの意からであった。しかし、この本を巡っては、賛否両論があった。当然だと思う。中野孝次は、湾岸戦争が勃発した際に、大江健三郎井上ひさしらと共に、反核アピールを行ったぐらいで、「左派」の人間である。その中野孝次が、「清貧の思想」というともすれば、誤解を受けるような本を書いたのには、それなりの熱い想いがあったことは間違いない。売れっ子作家で、大学教授の人間が、「清貧という偽善的なことを言うな」という世間の反感を買うことは必定。しかし、中野孝次は、それを承知で書いたのだから、私は凄い作家であると思う。中野孝次は、大工の父親を持ち、決して裕福な家庭の子息ではなかった。しかし、血の滲む努力をして、東京大学に合格して、ドイツ文学者そして売れっ子作家へと自分の力でのしあがって行く。だから中野孝次は、挫折を知らず、他人の心の痛みが分からない、「純粋培養のエリート」ではない。そのため、中野孝次の文章を読んでいると、行間から「人間への確かなやさしさ」のようなものが滲み出ている。その辺は、最近の「頭だけで、抽象的な観念」を練りまわしている若い作家たちと違う所である。私も「清貧」に行きたいと思うが、俗世の欲望から抜け切れないでいる。お金が欲しいという欲望よりも、名声を得たいという欲望が強いのである。私は、子供の頃から非常に「自己顕示欲」が強い人間であり、人一倍「負けん気」の強い人間であった。人と同じであることを極端に嫌う。自分は、凡人ではない、何かを成し遂げる人間であるという思い上がった所があった。そうした、性格が災いして、「普通」に生きられないのだと今では反省している。精神医学的には「肥大した自己」を飼いならして、大人になったとでも断罪されるのが落ちであろう。しかし、私は、今でも一つの事に賭ける「パッション」は、他の人間には絶対負けない自負がある。ただ、「その才能が生かされる機会が巡ってこないだけ」と世間のせいにして自暴自棄になっている。「清貧」に行きたい、平凡に生きたいと思いながら、どこかで名声を得たいという「桎梏」で今日も悩む私である。