孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

長渕剛 もう一度「テレビドラマ」に帰ってきて「世の中が悪い」「社会が悪い」と怒り狂うべきだ くだらない「テレビドラマ」ばかりでうんざり

長渕剛の一連のテレビドラマは、80年代にテレビドラマの質が低下している状況にあって、唯一鑑賞に耐えうる作品であった。私は、1981年生まれで、どちらかというと、90年代の「月9」の木村拓哉のドラマの世代であるが、長渕剛の「とんぼ」「しゃぼん玉」といった作品に親近感を持てる。特に、「とんぼ」は、80年代のテレビドラマの歴史に残る名作であることは間違いないだろう。最終回、やくざに刺されて、血まみれになっても、立ち上がる長渕剛。あのシーンは、賛否両論あるだろうが、権力に対して牙をむき、たとえ敗北しても、己の主張に筋を通す「反骨精神」が溢れるもので、極めて貴重な作品である。70年代にテレビドラマの質が非常に高かった。まだ、視聴者も製作者の中にも、社会の理不尽に対しての「怒りの感情」や「正義感」が少なからずあったからだ。私は、何度もブログの中で、「必殺仕置人」が好きで、「ファンクラブ会員」であると書いている。「必殺シリーズ」が面白かったのも、70年代だけで、80年代に突入すると、くだらなくなった。三田村邦彦村上弘明、京本雅樹、ひかる一平という女性受けするだけの演技の下手な役者が「殺し屋」を演じるようになったためである。「必殺シリーズ」と「長渕剛のドラマ」は、非常に類似点がある。いずれも、反権力をテーゼとする点だ。長渕剛は、「長渕キック」で権力に立ち向かっていった。長渕剛が、まだ「マッチョ」で「愛国者」になる前のことである。長渕剛は、自分の肉体に過剰なまでに「コンプレックス」を持っていた。そのため、極真空手をやり、肉体改造し、自分の理想の「肉体美」を手に入れた。しかし、それと同時に長渕剛は、初心を忘れて、「愛国者」になり果ててしまう。長渕剛が、「役者」として大成しなかったの原因は、もう一つある。それは、監督や演出家の指示を全く無視して、「撮影現場」でわがままし放題であったことだ。「ウォ―タ―ムーン」という映画で監督の工藤栄一とトラブルを起こし、長渕剛が自ら、メガホンを取ったことはあまりも有名な話である。松田優作でさえ、工藤栄一や巨匠の指示に従て、演技をした。その思い上がりが、長渕剛の役者としての可能性を自ら奪ったと言っても過言ではないだろう。今の「テレビドラマ」は、鑑賞に耐えうるものが全くない。「ジャニタレ」と「演技の下手な自称女優」が、勘違いしているだけである。こうした現状を打開してくれるのは、「世の中が悪い」「社会が悪い」と怒り狂う長渕剛だけである。長渕剛、テレビに帰ってこいと叫びたくなる今日この頃だ。