孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「本当に心の深い傷を負った人」はもう何も語れないと思う しかし、最近やたら「被害者」を強調する風潮がある そういう者の言葉を私は疑う

朝日新聞」を読んでいて感じるのは、何かの被害者に焦点を当てた記事が非常に多いことである。性的虐待を受けた女性当事者だけでなく、男性当事者の告白まで掲載しているのであるが、私は読んでいて「真実味」というものを全く感じられなかった。どれもこれも陳腐なもので、既視感があり、心が全く動かされないのである。「トラウマ」という言葉が安易に使われ過ぎているように思えてならない。「少し自分にとって嫌な出来事」をトラウマと呼ぶのは、いかがなものかと思う。「トラウマ」というのは、凄まじい「暴力」や「事故」に遭遇して、精神的に後遺症が残り、日常生活に支障を来たすほどのものである。精神医学において、「トラウマ治療」は、あまり確立されている状況ではない。薬物投与が、基本であるが、「EMDR」という「眼球運動」に注目した治療法がある。私は、この「EMDR」は、全く効き目がないと思う。やはり、「トラウマ治療」は、対話が基本である。「トラウマ」を負った人の苦しみをどれだけ真摯に聴き、受容するかがすべてである。しかし、それが出来る人間的に優れた「精神科医」は皆無ではないだろうか。また、「被害者」を強調する風潮が加速してきたように、私は思えてならない。それは、良い事である。しかし、どこまでその被害者の発言に信憑性があるのか、はなはだ疑問であることが非常に多い。例えば、山口敬之にレイプされた伊藤詩織という人物がいた。彼女を批判して、逆に「名誉棄損で訴えられ、敗北した者が数多く存在する。このことは、何を証明するのか。伊藤詩織の言葉に「真実味」を感じられない人がかなりいるということだ。伊藤詩織は、フェミニストたちに持ち上げられて、彼女を批判することは、ある種の「タブー」になった。伊藤詩織の発言に間違いがあるという「決定的な証拠」を見つけて、批判しない限り、うかつに伊藤詩織の事をとやかく言えないのである。これは、非常に危険なことである私は思う。人間というものは、あまりにも激しい「トラウマ」体験をすると、公の場に出て、自らの体験を克明に語れるほどの精神状態ではない。最近の「被害者」として、公の場に出て何かを語る人間を見ると、私は疑ってしまう。