孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「しょぼい人生」であっても それを絶対に他人にとやかく言われたくない ギリギリの「プライド」と矜持を持って生きたいと思う 亡き小浜逸郎氏に捧ぐ。

私は、もうすぐ42歳になろうとしている。まだ、「一発逆転」を夢見て生きているのだが、他人は、「痛い人」としか見ないだろう。40歳いや、30歳で人生の勝負は、決まると言っても過言ではないだろう。その常識に挑戦しようとするのは、全く意味のないことだろうか。私は、そうは思わない。確率的には、「一発逆転」の可能性は、ほぼ0に近い。しかし、才能と努力と継続そして情熱をもって一つの事に当たれば、夢がかなうことも無きにしも非ずというのが、私の考えである。最近思うのは、最底辺で生きている人の事を「吐き捨てるように」低評価する人間があまりにも多いことだ。生活保護受給者、ホームレス、ひきこもり、障害者など、社会的弱者の「人権」が軽視されている。その一方で、女性や性的同性愛者、LGBTQなどの「人権」が必要以上に擁護され過ぎている現状に私は違和感を感じてならない。今日は、評論家の小浜逸郎氏が亡くなった。小浜逸郎という論客を知る人は皆無であろう。保守派の論客でありながら、なかなか的を射た鋭い見解を示す。小浜逸郎氏は、「家族論」を得意とした。「なぜ、人を殺してはいけないのか」や「男がさばくアグネス論争」という本は、有名である。小浜逸郎氏は、吉本隆明の影響を受けたため、「右派」の論客であるながら、一筋縄ではいかない「精緻で論理的」な見解を展開した。小浜逸郎氏は、「左翼不在」と強調して、女性や「同性愛者」「LGBTQ」という本当の「社会的弱者」を「左翼」が守ろうとしないことを危惧した。保守派の論客である、小浜逸郎氏からそういう指摘がなされるのは、いかに「左翼」が地に落ちたかを証明していると思う。また、小浜逸郎氏は、「選択的夫婦別姓」について手厳しく非難した。話が逸れてしまったが、最近の社会の風潮として、「本当に庇護されるべき社会的弱者の人権」が蔑ろにされているのではないだろうか。私などは、社会的弱者に居る人間なのでそのことがひしひし分かる。「しょぼい人生」を吐き捨てるような手合いほど、「似非人権派」「良識的市民」であることが多い。「しょぼい人生」であっても、私は他人にとやかく言われたくない。「ギリギリ」のプライドと矜持を持って生きたいと思う。また、保守派でありながら「左翼不在」を指摘した小浜逸郎氏に追悼の意を表したい。