孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「天才と狂気は紙一重」 しかし現代はそういう人を追い出してしまう社会である 「才能」の芽を摘んでしまうのは非常に残念である

「天才と狂気は紙一重」と言われるように、天才と狂人は極めて近接点に存在する。狂気は、天才の必要条件であることは間違いないだろう。精神医学的にも、天才と狂気を研究する学問もあるほどで、天才は、何らかの精神疾患を抱えていた。精神を病んでいたからこそ、凡人が想像も及びつかない偉業を成し遂げたのだろう。現代でも、天才と呼ばれる人たちが少なからず存在するが、どこか小粒な感じがして、上手く社会に適応している感じがして、スケールが小さいように思えてならない。天才とはどんな人を指すのだろうか。知能指数が高い人、「地頭の良い人」はもちろん、それだけでは、「天才」と呼べない。私が思う「天才」は、「思考回路」が常人と異なり、思考パターンを常にアップ・デートし続けることが出来る人のことだ。私たち凡人は、ありきたりな事しか考えられない。しかし、天才は、幾多のアイデアを取捨選択して、自分が最良と思う「アイデア」を社会に突きつける。また、その偏執病的な「のめり込み」も、私たちを圧倒させる。最近の世の中は、そうした天才を追い出してしまう社会であると私は思えてならない。何故ならば、組織の安定をかき乱す「迷惑な存在」でしかないからである。最近、「ギフテッド」という子供の存在が、教育現場で話題になっている。ある特定の分野に突出した才能を持つが、発達障害や「コミュニケーション能力」が著しく低いので、サポートしようという動きが活発になってきた。科学的根拠もなく、ただ「発達障害」を持った子供の親と本人をどこか安心させるためのものでしかないのではないだろうか。まず第一に、そんなに、特殊な才能を持った子供がいるはずがない。仮に特殊な才能を持った子供」がいたとして、そういう子供を文部科学省を中心とした国家の管理体制に従わせるのはいかがなものかと思う。「天才」は、自由奔放に生きるべきであり、「ギフテッド」というわざとらしい言葉で呼ぶこと自体に胡散臭いものを感じてならない。「天才」を異物として追い出してしまう社会の方に問題があると私は思えてならない。