孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

アナーキーでアウトロー的な人間が皆無になった 教科書的な「正論」を主張する烏合の衆ばかりでは、世の中面白くないと思う

ある意味において、アナーキーアウトロー的な人間が様々な分野で皆無になったように思えてならない。時代が、そのような異質な存在を求めていないのだろうか。どんどんと、教科書に書いてあるような「正論」を主張する良識的市民ばかりになった。私は、「良識的市民」が大嫌いだ。彼らは、一見してもっともらしい事を言う。しかし、自らは、幸せな生活を享受していて、本当の「最底辺」の人たちの暮らしなど知る由もない。また、自分の生活を投げ捨ててまで、「思想」に殉ずるという高邁な精神など全く持ち合わせていない。「良識的な市民」の思考回路は、いたって単純なものだ。「政権」を批判するだけに終始して、「本当の巨悪」に対しては目をつむる。いや、「本当の巨悪」が何なのかという事すら知らない。政権を批判するのも、せいぜい「床屋談義」の域を超えていない。アナーキーな人間というのは、生まれついた才能でもあると私は考えている。ともすれば、社会の裏を知り尽くしているというイメージが強い。しかし、「物の見方」「思考の癖」というものが、普通の人よりも過激で、自ずと公序良俗に反する言動を取ってしまう。たとえ、上流階級や上品な家庭に生まれ、育っても、アナーキーな人間はいるだろう。「新右翼」と「新左翼」が、互いに惹かれ合うことがある。おそらく、「心情的アナーキズム」という点において、共通しているのではないだろうか。現代においては、「新右翼」も「新左翼」も壊滅状態にあると言っても過言ではない。若者が、全体的に「保守化」しているからである。また、リベラルなことを主張する若者にありがちなのは、地に足を着いたことを語らず、どこからか借りてきた知識を披歴するだけに終始していることだ。「選択的夫婦別姓」「ジェンダー平等」などヒステリックに叫ぶ姿を見ていると、私は日本の先行きが思いやられてならない。アナーキーな人間というのは、「肉体的言語」を持つものだ。自らの思想を過激な手段で社会に挑戦する。たとえ、自らの人生が破滅しても。口舌の徒ばかりになった今の社会に本物の「アナーキー」で「アウトロー的」な人間が現れることを望むばかりだ。