孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「思想なきテロリスト」木村隆二と山上徹也容疑者 巨大な「権力」に挑戦するテロリズムが起きて当然ということもある

岸田文雄首相を襲撃した木村隆二容疑者の一連の報道を見ていると、「思想性」というものを全く持ち合わせていない。選挙の法制度に不満を持って、「本人訴訟」を提起していたというが、「政治的な事」をネット情報を断片的に収集しただけに終始して、正確な情報に基づいて勉強したものではない。メディアは、木村隆二容疑者の生い立ちを興味本位に報道している。小学校までは明るい性格であったが、中学生になると暗くなったとか。おそらく、そうした人間は数多く存在する。それを誇張して、「特別な人間」であるから犯罪を犯したなどというのは、あまりにも短絡的思考でしかない。木村隆二容疑者の「精神鑑定」の必要性が問われているが、全くのナンセンスである。島田雅彦氏の発言が集中砲火されている。確かに、不適切発言であることは間違いないだろう。しかし、島田雅彦氏を「大罪を犯した犯罪者」のごとく断罪する「右派」の論調を私は到底許せない。暗殺された安倍晋三元首相が生前にした悪業の数が、不問にされてしまったことは看過し難いだろう。自殺した財務省の赤木俊夫さんなどは、「安倍晋三政治」の犠牲者である。山上徹也容疑者も、一貫した思想を持ち合わせていない。何故、こうした「思想なきテロリスト」の凶行が続くのだろうか。「自民党政治への不満」よりも、「若者の政治への関わり方」の現代性がこうした「劇場型犯罪」を生む土壌になっているように私は思えてならない。ネットで「政治問題、社会問題」を論じるのが主流になっているが、猫も杓子も同じもので、自分の頭で考えたものではない。また、生活体験に基づき「魂の叫び」でもない。これでは、「床屋談義」以下の低レベルだ。かつては、右翼であれ左翼であれ、「思想性」を持ち、現実に「テロリズム」という行動を起こす者が少なからずいた。彼らの「思想」には、瑕疵があって不完全なものであるが、「国を憂う」という意味では一貫性と純粋さを持ったものであった。巨大な権力の不正を糾すという「大義名分」は、私には何か感ずる所があり、「テロリズム」を断罪できない。島田雅彦氏は、言い方を間違えただけあって、私は、島田雅彦氏を「大罪を犯した犯罪者のごとく」つるしあげる「右派」の人間たちの方が許せない。彼らこそ、故安倍晋三をいまだ崇拝するトンデモナイ手合いたちだ。そもそも現代の日本において、「民主主義」がまともに機能しているとは私には思えない。