孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「頑張り屋のしんちゃん」と言われていた私が 怠惰で情けない中年男になったのは ある意味必然ではなかったのか!

私はの子供頃に、「頑張り屋のしんちゃん」と言われていた。しんちゃんとは、私の下の名前を略したものである。何事にも一生懸命取り組み、真面目で模範的な子供であったからだ。しかし、今の姿は、社会生活不適応者で情けない中年男である。私だけでなく、こうした人間が世の中には数多く存在すると思う。かつてのように、努力が報われない時代になったことが最大の原因である。真面目で優秀な人間は、とりあえず、大学に入学する段階までは、順調良く行く。例外として、志望していた大学に合格できずに、第2希望の不本意な大学に進学せざるを得なくなって、人生の歯車が狂い出すケースもある。しかし、大学入試システム自体が、非常に緩くなっていて、浪人して、予備校に通えば、ある程度名の知れた一流大学に合格できるようになっている。現代において、一番厄介なのは、人間関係が複雑化したことだろう。かつてのように、「終身雇用制」が崩れ、「ジョブ型」の労働へとシフトした。「終身雇用制」を批判する人が多いが、私は反対である。「終身雇用制」では、新入社員をじっくりと育て見守った。しかし、現代では、「即戦力」が求められて、直ぐに「仕事ができない」と判断された新入社員は、解雇するように仕向けられる。「パワハラ」が起こるのもそうした、効率優先主義を企業が何よりも重視するからではないだろうか。「終身雇用制」を批判する人は、「仕事のできないおじさん」を社内のお荷物としか見做していないからである。「仕事のできないおじさん」に給料を与えるのは、無駄であると決めつけて、排除したがる。不景気で、仕方がない面もあるが、あまりにも非情なことだと私は思う。「仕事ができるか、できないか」は長期的なスパンで見ないと分からないものである。一見して、「どんくさい人間」であっても「ポテンシャル」があって、努力によって才能が開花されることもある。私が言いたいのは、「若者の本当の才能や可能性」を見極めることのできる人間が皆無になったことだ。上っ面だけで、人間を判断する薄っぺらい世の中になった。私は、「人から勘違いされる」人間である。そのため、不当な仕打ちを度々受けてきた。そうしたことが重なって、真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなった。そうしたと事に対する反発心から怠惰な人間をわざと演じるようになった。しかし、人間というものは基本的に変われるものではない。今も、私の中では、「頑張り屋のしんちゃん」はいまだ消え去っていない。