孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

今の社会は 「こころのきれいな人間」は成功しない ある売れない吉本芸人がテレビに映り その「目のやさしさ」を見て思った 汚い奴が「逃げ得」する構造になっている

昨日放送された、朝日放送岡村隆史となるみがやっている番組を見た。その番組で、吉本芸人の実家を改装するという企画がある。大体、売れていない芸人が出演する。昨日の放送に出演した芸人も、芸歴18年というのに、全く売れていない。その芸人の実家が映し出されて、父親と母親も出演した。父親が、80歳という。母親は、体が不自由そうである。本当に「大阪の下町」の人間という感じで、この家族に私は親しみを感じた。何よりもその芸人の目があまりにも「やさしい」ことに私は思う所があった。売れている芸人の目を見ていると、お笑いをやっている人間にもかかわらず、「目が笑っていない」あるいは「薄汚い欲望で目が濁っている」のだ。要するに他人を蹴落としてまで、「自分が売れようとする」感情で満ち溢れているのである。そういう感情がなければ、「過酷なお笑いの世界」では生き残っていけないのは当然でだろう。しかし、何か最近の「お笑いの世界」のそうした風潮に私は嫌なものを感じてならない。昔のお笑い芸人は、そうした「薄汚い欲望」とは無縁であった。「天然」というように、生まれた時点で、「面白い人間」なのである。あるいは、芸能界という「やくざな社会」でしか生きていけない「アウトロー的資質」を持った人間ばかりだった。例えば、横山やすし。破天荒な生き方はあまりにも有名である。「タクシー運転手への暴行」「その他のゴタゴタ」。しかし、横山やすしの「目」はやさしい。「やさしさ」と繊細さの裏返しで、反社会的な行動を取ったとも考え得る。今の芸能界は、横山やすしのようなタイプは、絶対に受け入れられない。「計算高い」「空気を読む」「公序良俗を乱さない」。要するの芸能人が、サラリーマン化しているのだ。芸能界のみならず、サラリーマンの社会でも、「こころのきれいな人間」は成功しない。「出世する奴」は、マジョリティーから人気があるかもしれないが、「人間観察」の長けた者が見ると、「薄汚い奴」でしかない。「正直ものは馬鹿を見る」本当に嫌な世の中になったものだ。