孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

井筒和幸監督 朝鮮総連から映画の制作費をもらっていても 「映画への愛は本物」 20年くらい前に「大学生の映画サークルのふざけた若者」に激怒した姿が忘れられない

井筒和幸監督が、「朝鮮総連」から映画の製作費をもらっていると批判されている。一体何が悪いのかと私は言いたい。井筒和幸監督の映画製作に賭ける情熱は、デビュー当時から一向に変わることがない。自主制作の「マイナーなピンク映画」から、いきなり「ガキ帝国」という日本映画史上に残る名作を撮り、一躍メジャーになった。そのことが、かえって井筒和幸監督にとっては、苦しみ多き監督人生になった。「角川映画」を撮った際には、こころの病になって、精神科に通院し、精神安定剤を服用しながら映画を完成させたエピソードはあまりにも有名。井筒和幸監督は、豪放磊落のように見えるが、非常に繊細な神経の持ち主である。「いつも腕を組んで、怒っている」のは、まともでない輩が許せないからである。「ガキ帝国」をも見た時に私は衝撃を受けた。若者たちの青春を、虚飾を排して、等身大に描き、リアルさを追求した。画面から、井筒和幸監督「自身の青春」を主人公たちに託した「情熱」が滲み出ていた。島田紳助松本竜介趙方豪という「素人くさい俳優たち」のキャストイングは、功を奏した。また、「大阪の猥雑さ」を見事に表出させた。「大阪の映画」は、数多くあるが、どれもこれも、「ぎこちない関西弁」を無理矢理に俳優に喋らせるだけのくだらないものでしかない。「ガキ帝国」でも、「在日朝鮮人」の問題が所々に散りばめている。無名時代の国村準が、別名で出演している。「鉄くず」を回収する「アパッチ族」という朝鮮人の役を演じている。現代の日本映画であれば、このようなテーマは禁忌とされるだろう。その後も、井筒和幸監督は、「在日朝鮮人」にこだわって映画を撮り続ける。「パッチギ」などその最たるものだろう。20年くらい前に、井筒和幸監督が、深夜の番組で、「大学の映画サークル」で自主映画を製作している学生たちに本気で怒った姿を私は忘れることができない。その学生たちは、「映画を勢いで撮る」という趣旨の発言をした。その発言に井筒和幸監督は、ブチ切れたのだ。映画をなめている学生に腹が立つと同時に、「映画の本質」を教える井筒和幸監督は、真剣であった。最近は、誰でも映画を撮れるような環境になってきた。「お笑い芸人」が映画を撮る。「プログラムピクチャーを量産していた撮影所システム」を経験せずに、「確固たる信念もないうぬぼれ」だけで映画を撮る若手監督。そういう手合いと比較すると、井筒和幸監督は、やはり本気で映画を愛しているのだと私は思う。