孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

小山田圭吾を集団リンチする日本人のメンタリティーの方が危険

小山田圭吾の、障害者いじめ発言が、社会問題にまで発展した。障害者をいじめるような鬼畜の所業は絶対許されない。しかし、看過できないのは、小山田圭吾Twitter上で罵る人間があまりにも多い事。また、この問題に便乗して、小山田圭吾を批判する、芸能人たちが続出していることである。自分達は、清廉潔白で、過去に、いじめに加担したことがないと、はっきり言えるのだろうか。小山田圭吾の出身校である、和光学園にもかなり問題があるように思えてならない。この学校の出身である、芸能人が非常に多い。私立の六年一貫制の学校というのは、公立学校とは、違った形のいじめが起きやすい。芸能人の中にも、過去に、いじめに加担した経験を持つ人間は、相当の数いるはずだ。そんな彼らが、小山田圭吾を批判する資格があるのか、はなはだ疑問である。テレビを見て、「昔、こいつにいじめられていた」と悔しい思いをしている人間はかなりいるはずではないだろうか。小山田圭吾の対応が、非常に悪い。対応が誤ったので、さらに、火種をつけることになった。「連絡先を探して、直接謝罪したい」この発言ほど馬鹿げたものはない。即刻に辞退するべきだった。今回の事件、オリンピック開催を反対する人たちにとって、都合の良い道具にされている感じがしてならない。爆笑問題太田光氏の発言が、的はずれなもので、非難されていが、私はそうは思わない。「抗議が日本中に巨大化してつるし上げになることは考えものだと指摘。当時記事が連載されたことは、そういう局面が当時サブカルチャーの中にあった」ということを指摘。後半のサブカル発言は間違っているが、つるし上げになっているという指摘は、傾聴に値する。太田光さんは、根本的に「やさしさ」を持った方である。言い方が間違っただけで、集団リンチのような状態を懸念されたのだと思う。小山田圭吾氏を批判する人を見ていると、江戸時代の刑場で罪人が処刑される時に、石を投げている光景とまったく変わらない。いくら、小山田圭吾がしたことが悪いことであっても、度を越して、批判することは、危険なことではないだろうか。独善的な正義は、時として、人を誤った行動に導くこともあるということを忘れてはいけない。

 

 

中野信子とういう脳科学者の見解が絶賛され過ぎてはいないか?

 中野信子という脳科学者は、今や売れっ子の作家である。本を出版すれば、べストセラーになり、メディアには引っ張りダコの存在である。中野信子が言うことが、全て正しいと疑うことなく、大絶賛する人があまりにも多い。最近では、「生贄探し 暴走する脳」で、作家のヤマザキマトの共著で、くだらない事を語っている。「サイコパス」「ペルソナ脳に潜む闇」などその他の著作も、脳科学という見地から、人間の心理を読み解いていく点で共通している。華やかな経歴と脳科学者という肩書が、一見して説得力があるように感じられるのだろう。「サイコパス」も、何か違った意味合いで使われるようになった。本来、精神病質者で、そんなに私たちの身の回りに存在するとは、到底考えられない。周囲の誰かを指さして、「サイコパス」と呼ぶのは、ただの誤解と偏見を生み出すだけである。「脳科学者が、こう言うのだから、間違いない。」と安易に盲信してしまうのは、非常に危険な傾向だと思う。脳と心は密接不可分であることについては、私たち素人よりも、はるかに精通した専門家であることは間違いないだろう。しかし、全ての人間の行動を「脳に還元してしまう」風潮には、警鐘を鳴らすべきである。脳については、「脳科学者」よりも「脳神経外科医」の方がはるかに具体的に知り尽くしている。「脳神経外科医」は、全ての診療科目の中では、最も優秀な医者である。実際に、頭を割って、手術するのだから、机上の空論だけでは、済まされない。一方、脳科学者は、実験と仮説を通してしか、脳のことを知らない。その違いをもっと認識するべきである。20年近く前、養老孟司の「バカの壁」が、大ベストセラーになった。養老孟司の一連の本もかなり杜撰な所が目立ち、あまり読む気にはなれなかった。そして、今や、様々な社会問題について、論じて、影響力のある、茂木健一郎氏も「脳科学者」である。中野信子氏もワイドショーに出演したり、専門外の事に口を挟むようになった。慎重に言葉を選んで、発言してもらいたいものである。

「紀州のドン・ファン」何故、和歌山県警の捜査の進捗状況を報道しないのか?

6月9日「紀州ドンファン」と呼ばれる和歌山県田辺市の資産家、野崎幸助さんを急性覚醒剤中毒で殺害したとして、殺人罪で起訴した、須藤早貴について、札幌市の知人男性から現金2980万円を詐取したとする、詐欺罪で追起訴した。あれだけ和歌山県警が、自信を持って逮捕したのに、別件で起訴するとういうのは、捜査が進展していないからではないだろうか。状況証拠を積み上げるのに、時間がかかるという、言い訳じみたことは、聞きたくない。そもそも、野崎幸助さんが亡くなってから、3年も過ぎた時点で逮捕するのは、遅すぎる。それにもかかわらず、メディアは、こぞって、和歌山県警を過大に評価した。和歌山県警と言えば、「カレー事件」で有名であるが、この事件の捜査手法にもかなり問題があると思う。林真須美という、強烈な個性の人間に注目しすぎて、事の本質を見逃してしまった。今回の事件も、被害者である野崎幸助さんの著作や、須藤早貴という、いかにも胡散臭い人間であったことから、事件が面白可笑しく消費されている。日刊ゲンダイやフライデーと言った週刊誌は、特に酷い。読者の目を引き付けるためだけの、くだらない話を垂れ流すとういう始末。昔は、週刊誌と言えども、それなりの問題意識を持って報道していたように思える。特に看過できないのは、「紀州ドン・ファンを刺した元暴力団幹部が自民党支部代表」という記事だ。この男は、「自由民主党自由同和会和歌山県支部」代表という肩書を持つ。所謂、同和団体の代表であり、自民党そして暴力団とも関係を持つ、ダーティーな存在である。2月には、新型コロナ対策の給付金100万円を騙し取って逮捕されている。調べてみると、過去にも逮捕歴があることが分かった。ややこしい案件なので、メディアは深く追及しないだろう。さすが二階俊博幹事のお膝元のことあって、和歌山は、警察、政治家、暴力団が癒着する体質が極めて高い。くだらない事を報道するより、もっとアンタッチャブルな領域にメスを入れるべきではないだろうか。

「マチズモ」を誤用してまで、政権批判したい武田砂鉄氏

「マチズモを削り取れ」とういう本を武田砂鉄氏が、上梓した。マチズモとは、男性優位といった意味のことだろうけれど。この本の内容は、読む前から想像できて、まったく読む気にもならない。今の社会が、女性に不利な社会であることを言いたいがために、「マチズモ」などと時代錯誤な言葉を引き出してくるのは、あまりにもセンスが悪すぎる。武田砂鉄氏は、今もっとも売れっ子の若手評論家の一人である。朝日新聞の書評をしたり、ラジオ出演まで幅広い活動は、かなり影響力がある。しかし、氏に対してどうしても、好印象を受けない。「紋切型社会」「芸能人寛容論」などの著作を読んでみると、その文章の行間から、不快なものを感じるからだ。着眼点は鋭いのだけれど、底意地の悪いのようなものが充満していて、文章を書いている、氏の人間性が見え隠れするように思えてならない。どんな高潔なことを主張しても、心に響いてこないのは、その辺にあるのかもしれない。武田砂鉄氏のスタンスは、政権を批判するという点では、一貫している。「マチズモを削り取れ」も、女性が現代社会において、不利な状況にあるのは、政権に原因があるとでも言いたいのだろう。朝日新聞をはじめ、女性の人権が蔑ろにされているという、行き過ぎた主張は目に余るものがある。選択的夫婦別姓ジェンダー平等をヒステリックに叫んでいる人たちの過剰さはとどまることを知らない。現実の社会を見渡せば、様々な局面で困難を強いられているのは、女性より男性であることにまったく気づいていない。いや、気づいても無視しているのだろう。社会に適応できずに、脱落して、孤立した男性たちに対する救済こそ、政府がしなければならないことである。今日も、選択的夫婦別姓の裁判について、とやかく、ケチをつけるカップルが、朝日新聞の朝刊に紹介されていた。年下のイケメン男を旦那にした、30代前半の女が、歯の浮くようなこと言っているのには、あきれ果てて、物も言えなかった。「マチズモ」については、女性を蔑視するという意味合いはないと思う。むしろ、女性を守ってやるとう、ポジティブな男らしさの方が大きいように感じられる。今や、「男らしさ」あるいは、「男気」など廃れていて、口に出せば、「女性蔑視」とされ兼ねない時代である。ただ単に、政権を批判することが、高度な言論活動だと錯覚している評論家が多すぎる。そうした人に限って、道端で倒れているホームレスのような、本当の社会的弱者に対して冷たい態度を取っているような気がしてならない。

 

「ギフテッド」支援は親を勘違いさせるだけである

「ギフテッド」と呼ばれる、突出した才能に恵まれた子供の教育支援を文部科学省が検討し始めた。記憶力や言語能力、数学力などに優れながら、学校での学習で困難を抱えて、不登校になるケースが指摘されたきた。どんな才能を持つ子を、どう支援するか、有識者会議を設けて2年かけて検討する。そもそも「ギフテッド」とうい概念自体、非科学的で根拠のないものである。発達障害アスペルガーと診断された、子供の中に、天才的な才能を持つということは、以前からよく言われてきた。ただ、現実には、そういった子供は、ごく稀である。社会生活に適応できないけど、「自分の子供は、天才かもしれない」と誤った認識を持たせ、問題行動と向き合うことを避けさせるだけである。文部科学省は、いったい何を考えているのだろうか。格差社会で、学力が、二極化していると言われて久しい。年収の高い家庭と低い家庭では、歴然と学力に差があることは、統計を見ても明らかである。そうした、格差を解消することが先決ではないのか。近頃の文部科学省の政策は、一部のエリートを育てる教育にしか関心がないように思えてならない。「天才」というのは、何を指標にしているのか、はなはだ疑問である。知能検査の結果によるものなのか。小学生で大学受験の数学の問題を解けるようなことだとしたら、それらを「天才」と呼ぶのは不適切である。私が、個人的に天才だと思うのは、藤井聡太さんである。将棋のことは無知であるが、凄まじい集中力と先を見通す力。一流の棋士であれば、備わっているのだろうけれど、他の棋士とどこか違う部分がある。先ずは謙虚さと控えめな態度が好印象をもたらす。あの年齢で、取材陣に偉ぶることなく接するのは、人格的にも優れている証しではないだろうか。藤井聡太さんが子供の頃、モンテッソリー教育を受けたいたことが分かれば、真似をしたがる、親ばかな人たちが数多くいた。偶然、モンテッソリー教育を受けたいただけのことで、「天才」は外部の押し付けによって、生まれるものではない。藤井聡太さんは、高校に進学せずに、将棋一本に賭けることした。この決断力こそ素晴らしい。本当に勝負の世界で生きる人間にふさわしい特質を備えている。「ギフテッド」に対する支援がなされるようになると、学校で問題行動を起こしているのに、責任転嫁する親が増加してくるだろう。「自分の子供は天才だから、学校やクラスの子供たちが悪い」というふうに。本当の天才は、そんな野暮なことは絶対しないものである。

 

婚活にユニクロはNGか?情報に惑わされる男たち

マネーポストWEBが、くだらない記事を配信している。婚活で知り合い最初のデートで、失敗する恋愛弱者男性の例を面白可笑しく書いている。「ユニクロの服を着ようが」、「サイゼリア」で食事をしようが、失敗する男は、ある一定程度存在する訳で、わざわざ記事にする必要などない。イケメンであれば、ユニクロを着ていたら、庶民的で株が上がり、好印象をもたらす、一方、不細工が、ユニクロを着ていたら、「服装ダサすぎ」と鼻で笑うだけのことである。顔に自信がなかったら、高級なスーツを選ぶのが、ベストだと個人的に思う。恋愛弱者男性が婚活をして、失敗することを嘲り、笑うような、この記事は非常に不愉快極まりない。女が婚活する記事は、様相がまったく違ってくる。ある程度、恋愛経験がある女が、過去の失敗を反省して、どのような戦略を立てれば成功するかといった趣になる。イケメン男と付き合ってたが、うまくいかなかった。「次は、少し、顔のランクを下げて、中身をもっと重視しよう」。いったい何様のつもりなのか。顔のランクを下げてたレベルが、所謂、星野源であることに、イマドキ女子の特性が集約されている。星野源ではなく、小島よしおであれば面白く、もう少しは、多様な価値観が認められると、個人的には思うのだが。どうも、私は、小島よしおという男が気になって仕方がない。2007年に大ブレイクしたが、一発屋とみなされている。最近は、子供たちの勉強向けのYouTubeで頑張っているが、今一つという感じがしてならない。学歴もあり、スポーツもできる。そして、裸ではなく、服を着て、話している様子を見れば、なかなかの「ハンサム」に感じられるのだが。おそらく、「小島よしお的な顔」は、イマドキの流行の顔ではないこと。絶対に女子受けしないこと。端正であるが、男くさくて濃い顔だからだ。私も、同種の顔だから、おじいさん、おばあさんに、「兄ちゃん、男前やな」と頻繁に言われる。そのためか「小島よしお」に親近感を抱いてしまう。婚活などする必要ないのではないだろうか。恋愛弱者男性の心の傷を深めるだけである。

 

死者まで出ているのに、「警察24時」を放送するTBSの倫理観

昨日、どこかのテレビ局で、「警察24時」が放送されていた。この「警察24時」という番組は、視聴率を稼ぐことができるので、各テレビ局は放送する。しかし、とても許し難い事件が発生している。2013年11月24日未明鹿児島市の繁華街天文館で酔っ払ていた会社員男性が、運転代行の運転手と喧嘩になっている通報があり、警察官12人が駆け付けた。そして、男性は、4、5人の警察官にうつぶせに押さえこまれて死亡した。驚くことに、この模様を、TBSの「警野24時」のスタッフが、一部始終撮影していたのである。この映像を、鹿児島県警は押収した。遺族は、特別公務員陵虐致死罪で告訴するが、最終的に業務上過失致死で書類送検という、あまりにも軽い罪にしか問われない。民事裁判では、和解し、鹿児島県は、2500万円を支払うよう命じたが、証拠の映像を採用されず、闇に葬られた。警察官が、職務目的で、圧殺しさせる事件を挙げれば枚挙に暇がない。「犯罪者、何か悪い事をしそうな輩」だったら、手荒なことをしても許されるという、「警察官の特権意識」が、この種の犯罪を生み出すのだろう。警察官に殺された場合、付審判請求という法律制度が残されている。しかし、警察官を相手どった裁判にほぼ勝ち目はない。裁判所も警察側に有利な判決を下すことが慣習となっている。TBSが証拠映像を警察に渡し、何の釈明もしていない。「人一人が死んでいる事態」をいったいどのように考えているのだろうか。この事件をうやむやにして、まだ、TBSは、警察24時を放送し続けている。亡くなった遺族を冒瀆する以外の何物でもない。「警察24時」を興味本意で見ている国民が数多くいることを想像すると、恐ろしい。「警察24時」を見る気にならないけれど、逮捕しやすい、ケースばかりではないだろうか。あれを見て、警察官は、正義の味方だと洗脳されているのだから、救いようがない。実際の警察官は、あんなものではない。「弱気を助け強気を挫く」ではなく「強気を助け弱気を挫く」のが警察官だ。もっとはっきり言えば、やくざよりも質の悪い輩の集団だ。今週の土曜日にBSーTBSで「警察24時」が放送される。「報道特集」などで、綺麗ごとを並べてながら、このような倫理観の欠けらもないのが、TBSの実態なのだろう。