孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

世間知らずの「お坊ちゃん」に見える私 洞察力のない人間が判断するものであって 本当は「複雑な性格」で一筋縄ではいかない

どうも、私は世間知らずの「お坊ちゃん」と勘違いされることが多い。人から見れば、お上品な家庭に育って、何一つ不自由なく育てられて、世間の裏を知らない能天気な男と思われている。しかし、私自身は、そう単純な世間知らずの「お坊ちゃん」ではないと確信している。私の性格は、一言でいえば、非常に神経質かつ大胆不敵である。神経質を通り超して、異常なまで些細なことを気にする。完璧主義者であり、「黒か白か」を決めなければ、済まない性分で自分でも困っている。おそらく、そうした「完璧主義」は、周囲をも巻き込み、敬遠されて、生きづらい原因となっているのだろう。堅苦しい私の振る舞いは、家庭環境によって形成されたものであると思う。「こうするべき」「かくあるべき」といった教条主義的なものは、知らず、知らずのうちに身に付いていったに違いない。こうした性格は、3歳までに形成されるという「3歳神話」というのは、あながち間違っていないと思う。性格は、変えられないが、「行動スタイル」なら変えられると、説いたのが、アドラーである。数年前に、岸見一郎氏の「嫌われる勇気」でアドラー心理学が一躍ブームになった。しかし、あのブームは、本来のアドラー心理学から大きくかけ離れたものであった。何か、自己啓発的のものとして、曲解されたような気がしてならなかった。それほど、現代は、生きづらい世の中で、「通俗心理学」が重宝されるのだろう。アドラーは、本来「自分の性格」は変えられないが、「共同体」に適応するために、自己を変革していくことに、「人間としての生きる価値」を説いた。そのアドラーの学説が、曲解されたのは少し残念であった。私は、「お坊ちゃん」で世間の汚い部分を知らない純粋な人間と勝手に決めつけられている。しかし、私自身が生まれついて持っている「アナーキー」かつ「反社会的」な部分が思春期の頃から萌芽し始めたことに気付いた。「アナーキー」かつ「反社会的」な部分は、普段の私の言動からは誰も察しがつかない。しかし、何か「理不尽なこと」に遭遇すると、そうした感情が先走ってしまうことがある。自分でも恐ろしく感じている次第である。