孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

「ルッキズム」を批判する女子高生 「独善的」な正義を主張するが 何年後には「イケメン」と付き合っていることは間違いないだろう

今日の朝日新聞の投書欄である「声」に、「ルッキズム」を批判する趣旨の女子高生の投書があった。その女子高生が、主張することは、「外見」を重視する社会に警鐘を鳴らすものであった。もっともらしい正論であるが、私は、この文章が極めて「優等生的」なもので、人の心を打つ所がないと感じた。この女子高生は、さぞかしお勉強ができるのだろう。受験勉強の「知識の詰め込み」だけでなく、社会や政治の問題にまで関心を持ち、天下の「朝日新聞」に投書するぐらいだから、申し分のない高校生であることは間違いない。しかし、「ルッキズム」の核心に迫っていなくて、非常に通り一篇の事しか言及していない。「ルッキズム」の問題を考えるうえで必要なのは、やはり恋愛や結婚において、「見た目優先主義」がバブルの頃から始まって今や当たり前の事となってしまっていることだ。「ルッキズム」という言葉は最近出てきたが、「人を見た目」で判断する風潮が加速したのは、2000年頃だと私は考えている。「イケメン」と言う言葉を聞かない日はない。テレビでも、「イケメン」。職場でも、「イケメン」。町を歩いていても、「イケメン」。耳にタコができるぐらい「イケメン」という言葉を私たちは耳にする。一つの「流行語」の耐用年数は、ごくわずかではないだろうか。例えば、「アベック」。「カップル」のことであるが。「アベック」と言うおっさんがいれば、大爆笑。関西では、「アイスコーヒー」のことを「レイコ―」と言った。注文の時にお姉さん「レイコ―」と。しかし、今や死語。喫茶店で「レイコ―」と注文すれば、怪訝な顔をされるのではないだろうか。つまり、「イケメン」という言葉が、20年以上も廃れることなく使用されているのは、やはり「見た目がすべて」という社会になった証しである。逆に「美人」はあまり耳にしない。それどころか、「美人」と言えば、フェミニストから「女性差別」だと糾弾される社会になった。それだけ、男が、「外見の美」を求められる社会になったということだ。この「ルッキズム」を批判する投書をした女子高生は、おそらく数年後には、「イケメン」と付き合って、「不細工男子」を差別していると私は思う。それにしても「朝日新聞」の投書は、一見して「人権」を擁護する「良識的市民」の方々のものだが、独善的な正義で、世の中の「汚い部分」に言及しようとしない。私は、左翼系の雑誌にしか絶対に投書はしない。