孤独死予備軍ひきこもり日記

ひきこもりが、日々の雑感を綴ります。

リベラル派は 「家族の多様性」を強調する 自分たちは結婚して幸せで「自分の死」を誰かに看取ってもらえる しかし「結婚できない男」は誰にも看取られず「ボロ布」のように死んでいく この現実をどう考えているのか

「家族の多様性」と称して、結婚という制度に固執しない、あるいは「同性愛者同士の共同生活」を認めていこうと主張する「リベラル派」が、今の時代大多数を占めている。結婚という制度に固執しないというには、まず「恋愛相手」があるという前提で議論を進めていることが問題ではないだろうか。「同性愛者」の結婚が認められていないと大騒ぎするが、一体何が問題なのか。「結婚」という制度に固執しないといいながら、法的に「同性愛者同士の結婚」を制度化するべきだと主張するのは、あまりにも矛盾したものである。「リベラル派」の人間に限って、伴侶や子供たちに恵まれて、幸せな生活を享受していることが多い。「人間はひとりで死んでいく」と言われるが、厳密には正確な言い回しではないと私は考えている。確かに、「人間の死は誰のものでもなく、自己のものでしかない」。「死後の世界」「あの世」が存在するか分からないが、向こうの世界に行くのは「ひとり」である。しかし、年老いて死ぬまでの間には、伴侶や子供、孫あるいはひ孫という家族の誰かが世話をしてくれる。たとえ、年老いて、家族が「介護」できない状態なので、「福祉施設」に入居していても、家族が訪問してくれる。そうした幸せな人たちが大多数の社会で、「結婚できない男」「恋愛できない男」は、誰にも看取られずに孤独に死んでいく。この問題は、現代社会の「恋愛弱者男性」の問題とも重なってくる深刻な問題だと思う。私は、「人間の幸せは、結婚して、家庭をつくる」ことにあると考えている。「自分のことを理解してくれる異性」と巡り合う。そうした当たり前の「人間としての幸せ」を得ることができない。そうしたことが、逆に「ありふれたこと」になっている現代社会は、異常ではないのかと言いたい。「異性と交際も出来ない男」は、必然的に孤独に死んでいく。お金がある男は、「高級な福祉施設」に入居して、手厚い介護を受けるだろう。貧乏な男は、病気が悪化して、ボロ布のように死んでいく。いづれにしても、地獄であることは間違いないだろう。