小室圭の年収が当初の2000万円から2倍の4000万円になった報道された。様々な「バッシング」にも負けずに努力したと称賛するような✕での投稿が話題になっている。「お前らが頑張らないうちに、小室圭さんは必死に努力した」とでも言いたいのだろうか。この投稿者は全くの能天気な人間である。若者が頑張らないのは、「頑張っても報われない」と悟り、諦めているからに過ぎない。2004年前後から「勝ち組、負け組」そして最近は「親ガチャ」というふうに、若者の間で「諦めモード」が共有されている。現代社会は、「能力がある人間が必ずしも成功するとは限らない構造」になっている。すでに古い言葉になるが、「スクールカースト」が一時期に流行した。この「スクールカースト」こそ現代社会が「不可抗力なものに支配されている」ということを如実に表しているだろう。たとえ、勉強やスポーツが出来ても、「カースト」が上位にならないという「理不尽」。この「理不尽さ」というものが、大人になっても続くのである。ある意味「カースト」は「いじめ」より残酷ではないだろうか。小室圭は、国際基督教大学出身である。しかし、「普通の大学入試」でこの大学を受験していない。また、弁護士になるための法学部の出身でもない。すべて、「抜け穴」を上手く利用して、NY司法試験に合格している。このNY司法司法試験も本当に合格したか疑わしい。しかし誰も怪しもうとしない。1回目の受験の時に小室圭は、「5点足らずに、落ちた」と言った。これは、くだらない吉本芸人のネタの1000倍面白い。小室圭の母親である小室佳代の「不正受給」も検察は不起訴にして闇に葬り去った。小室佳代の「不正受給」を追求しているのが、「元共産党員」で「極右」の篠原常一郎と言うのも皮肉である。篠原常一郎のやり方は、間違っている。本来であれば、「左派」が小室圭と小室佳代親子の「インチキ」を追求するべきだ。眞子さま、佳子さま、愛子さま、「全国民」がこの人たちを称賛する風潮がある。一体いつから日本は「右極化」したのだろうか。